熊川区有文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
P0005
資料群名
熊川区有文書
地域(近世,行政村,現在)
遠敷郡熊川村,熊川村熊川,若狭町熊川(上中町)
資料の年代
1589年(天正17)~1953年(昭和28)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
熊川村は小浜から北川沿いに水坂峠を越え、近江方面に抜ける街道(九里半越え)の国境近くに位置する。村高は大杉村とあわせて、「正保郷帳」では172石余、「天保郷帳」では220石余、家数は1726年(享保11)で213軒、1807年(文化4)で197軒であった。
この地は弘治年間(1555-58)には、武田氏家臣松宮氏によって支配され(明通寺文書138号)、永禄年間(1558-70)の末には、松宮氏被官で瓜生荘下司を務めた沼田氏に支配が引き継がれ、熊川城が構築されたと伝える(「若狭守護代記」)。
江戸時代に入ってからも当地は若狭の出入口にあたる宿場町として重要視され、陣屋・番所・米蔵などが置かれ町奉行が配置されるとともに、引き続き諸役を免許されるなど藩の保護を受けた。
小浜湊に陸揚げされ、若狭から出る諸荷物は当地の問屋に継立され近江今津や木津(こうづ)あるいは朽木谷を通って京・大津へと運ばれていた。当地には小浜藩の町奉行が置かれ、また、文書にみえる窪田手馬介(手間之介)は小浜の馬借頭で、当地の馬借はその支配下にあった。熊川で荷物稼ぎを行っていたのは主として熊川・大杉・新道の3か村であったが、他に近江国高嶋郡の38か村(上海道16か村、川上庄22か村)からも馬借や人足が入り込んでいた。
資料群の概要
この資料群約150点は、宿場町の問屋職を中心に引き継がれてきたもので、明治期以降の熊川区の資料を含んでいる。このうち御用日記等35冊24通は県指定文化財とされている。
(1)中世文書は4点。1589年(天正17)浅野長吉(長政)は当地を諸役免許の地と定め、同年の「覚(熊川年寄中覚)」では、交通路上「大切之要害」であるとして、家数を増やすよう命じている。他に浅野長継書状、木下勝俊諸役免許状がある。
(2)この他、京極氏・酒井氏の諸役免許状、宿法、熊川問屋仲間の定書、熊川奉行申渡などは3巻の巻子に仕立てられている。
(3)1702年(元禄15)から1868年(明治1)におよぶ34冊の御用日記は、熊川宿の月番問屋6名(後に8名)によって書き継がれたものである。藩・幕府からの通達、他国の風聞、番所通行願などの願書類の控えなど様々な内容が記述されており、時代が下るにしたがってさらに豊富になっている。役判質入関係の証文類の御用日記への付込みが命じられ、1840年(天保11)から「役判物控帳」として別冊につづられるようになった。
(4)争論関係では、江戸時代初期の熊川と新道、あるいは近江の馬借との争論に関する書状、熊川問屋と馬借との駄賃についての争論、魚荷取り扱いをめぐる早瀬・日向浦との争論、日笠村・平野村・東市場村などの下馬借と熊川・大杉・新道3か村馬借との北方(三方郡)の魚荷物をめぐる争論などが含まれる。
なお、早瀬・日向浦との争論は早瀬区有文書(資料編8所収)に関連資料があり、1761年(宝暦11)に熊川理分の裁許が下されていた。
利用条件
 
県史収載
資料編7 P.721-779 50点
県史以外の収載
亀井清「御用日記にみる江戸時代中期の宿場町熊川」『若狭』
複製本番号
P0001、P0081~P0143
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。