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福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
O0535
資料群名
秦俊司家文書
地域(近世,行政村,現在)
遠敷郡田烏浦,内外海村田烏,小浜市田烏
資料の年代
1231年(寛喜3)~1778年(安永7)
資料目録件数
6
組織歴および履歴
田烏浦は遠敷郡の東端にあって、若狭湾に面した中世以来の浜村である。中世では多烏と表記されることが多く、近世になって田烏に定着した。
当浦には田烏・釣姫(つるべ)・谷及(たんぎょ)・須ノ浦の4集落があり、1679年(延宝7)より田烏集落の中央を流れる田烏川を境として、北田烏と南田烏に分かれ、前者は田烏北・釣姫・谷及、後者は田烏南・須ノ浦からなり、それぞれに庄屋・組頭が置かれた。村高は131石3斗1升2合、67年(寛文7)の家数127軒であった。
当浦は平安末期に三方郡日向浦より移住した秦氏が開発したと伝え、鎌倉期には郡内の志積浦と同様廻船業を営んだ。
また古くより塩業が盛んで、須ノ浦・谷及・釣姫に塩田が開かれたが、江戸中期には塩師が潰れ、かわってころび畑(桐実畑)が開かれるようになった。
当家は先祖秦成重ら兄弟3人が多烏浦を開発、定住したとされる。鎌倉時代初期以来当浦の刀祢職を相伝し、近世には庄屋や組頭などの村役人を務め、南田烏八人衆の筆頭格であった。
当浦には田烏・釣姫(つるべ)・谷及(たんぎょ)・須ノ浦の4集落があり、1679年(延宝7)より田烏集落の中央を流れる田烏川を境として、北田烏と南田烏に分かれ、前者は田烏北・釣姫・谷及、後者は田烏南・須ノ浦からなり、それぞれに庄屋・組頭が置かれた。村高は131石3斗1升2合、67年(寛文7)の家数127軒であった。
当浦は平安末期に三方郡日向浦より移住した秦氏が開発したと伝え、鎌倉期には郡内の志積浦と同様廻船業を営んだ。
また古くより塩業が盛んで、須ノ浦・谷及・釣姫に塩田が開かれたが、江戸中期には塩師が潰れ、かわってころび畑(桐実畑)が開かれるようになった。
当家は先祖秦成重ら兄弟3人が多烏浦を開発、定住したとされる。鎌倉時代初期以来当浦の刀祢職を相伝し、近世には庄屋や組頭などの村役人を務め、南田烏八人衆の筆頭格であった。
資料群の概要
当家に伝存した資料の大半は京都大学に移譲され、中世資料5点と近世資料2点の計7点のみが残されている。
中世資料は家門のあかしとして残されたものであり、いずれも刀祢職に関する資料である。秦武成・源大夫守高父子が刀祢職に補任され、それが安堵されたことや、守高と本大夫との間に争論があったことを示す。また、補任状は1257年(正嘉1)が最後であり、これ以降は刀祢職が補任・宛行の対象外になったことが注目される。
近世資料は「若州御領分郡内高附寺社祭礼記録」と「田烏浦開闢日覚」(文永八年十二月廿八日若州遠敷郡田烏浦開闢、と記されている覚書)の2点である。
中世資料は家門のあかしとして残されたものであり、いずれも刀祢職に関する資料である。秦武成・源大夫守高父子が刀祢職に補任され、それが安堵されたことや、守高と本大夫との間に争論があったことを示す。また、補任状は1257年(正嘉1)が最後であり、これ以降は刀祢職が補任・宛行の対象外になったことが注目される。
近世資料は「若州御領分郡内高附寺社祭礼記録」と「田烏浦開闢日覚」(文永八年十二月廿八日若州遠敷郡田烏浦開闢、と記されている覚書)の2点である。
県史収載
資料編9 P.497-498 5点
県史以外の収載
『小浜市史』『若狭遠敷郡誌』『越前若狭古文書選』『若狭漁村史料』、羽原又吉「若狭湾沿海を中心とする中世漁業とその近代化」(『日本漁業経済史』中巻1)、小笠原長和「中世に於ける海村の生活-若狭国田烏・汲部両浦-(『史観』37-1)、黒川正宏『中世惣村の諸問題』第4・5章、村井康彦「中世漁村の成立過程」(京都大学文学部読史会『国史論集』1)、楠瀬勝「中世の若狭網場漁業をめぐる二・三の問題」(同)、五味克夫「中世開発漁村の変遷-若狭田烏浦の場合-」(『鹿児島大学法文学部研究紀要』8〔史学篇第5集〕)、『中世地下文書の世界』(春田直紀編 2017年 勉誠出版)ほか
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
O0924
関連資料一覧
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