大野治郎太夫家文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
O0523
資料群名
大野治郎太夫家文書
地域(近世,行政村,現在)
遠敷郡田烏浦,内外海村田烏,小浜市田烏
資料の年代
1311年(応長1)~1896年(明治29)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
田烏浦は、遠敷郡(郷帳等では遠敷郡、小浜藩の支配上では上中郡・下中郡に分けられており、下中郡)の東端にあって若狭湾に面した中世以来の漁村である。中世では多烏と表記されることが多く、近世になって田烏に定着した。
当浦には田烏・釣姫(つるべ)・谷及(たんぎょ)・須ノ浦の4集落があり、1679年(延宝7)より田烏集落の中央を流れる田烏川を境として、北田烏と南田烏に分かれ、前者は田烏北・釣姫・谷及、後者は田烏南・須ノ浦からなり、それぞれに庄屋・組頭が置かれた。村高は131石3斗1升2合、67年(寛文7)の家数127軒であった。
当浦は平安末期に三方郡日向浦より移住した秦氏が開発したと伝える。古くより塩業が盛んで、須ノ浦・谷及・釣姫に塩田が開かれ、1659年(万治2)には塩浜1町6反6畝があり、塩年貢高は54石1斗9合であった。江戸中期には塩師が潰れ、代わってころび畑(油桐畑)が開かれるようになった。
また漁業の歴史は古く、すでに1273年(文永10)にハマチ網が立てられており、以後飛魚網・鰒網が設けられた。1602年(慶長7)の船数は34艘、水主は56人(南35人、北21人)で惣中持ちの鯖・鰯網が4側あった(桑村文書)。1871年(明治4)の船数は72艘、うちはかせ船7艘、小船61艘、柴舟3艘のほか御免船1艘があった。
大野家は治郎太夫を称し、南田烏八人衆の一家であった。
資料群の概要
撮影資料は1311年(延慶4)以降約220点である。中世文書は4点で、1311年の下知状写は多烏・汲部(釣姫)両浦の刀祢・百姓が浦年貢を請負ったことに関連して発せられたもので、この頃には両浦の結びつきが強まっていたことがうかがわせる(原文書は秦文書、京都大学総合博物館蔵)。1540年(天文9)の網場売券からは日向浦の海民から北田烏刀祢藤三郎(三郎五郎)に売却され、のちに南田烏の新屋孫次郎に転売された事情が後筆の記述によってわかる。
近世文書では、(1)貢租、(2)漁業、(3)救恤、(4)田畑・山林・油桐畑・網場等の売券類、(5)その他がある。
(1)では年代がはっきりしたものは少ないが、1832年(天保3)と50年(嘉永3)の年貢免状がある。
(2)では、1657年(明暦3)の矢代浦との漁場争論にかかわる返答書をはじめとして、1764年(宝暦14)の南北田烏間での山境等にかかわる争論のほか、近世初期の八人衆共有の網場の存在とその輪番使用を示す1680年(延宝8)の覚書がふくまれる。また当浦から京都・大津方面への魚の小売に関連しては、このような背持荷に対して江戸時代中期以降飛脚札や月番切手など熊川での取り締りが強くなったことがわかる。
(3)では、借米願のほか、1750年(寛延3)に塩師が潰れて以来、宝暦・明和期に塩年貢の銀納願、塩浜上納願がたびたび出されていた。
(5)には、1667年(寛文7)「(小浜藩領村々寺社書上)」、材木伐採願、寺社の修復願、神事能御免願、庄屋役退役願、通行手形願等が含まれる。
利用条件
 
県史収載
資料編9 P.23-33 11点、通史編3 P.649
県史以外の収載
『小浜市史』
複製本番号
O0875~O0878
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。