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福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
O0502
資料群名
萬徳寺文書
地域(近世,行政村,現在)
遠敷郡金屋村,遠敷村金屋,小浜市金屋
資料の年代
1524年(大永4)~1876年(明治9)
資料目録件数
156
組織歴および履歴
萬徳寺は真言宗の寺院。縁起によればもとの極楽寺を応安年中(1368-75)に再興し正昭(照)院と改称したといい、戦国期には若狭国の「真言根本之寺」として崇敬された。近世には大覚寺末となり萬徳寺と称される。
資料群の概要
当寺の文書は150点余である。
中世文書は戦国期のものが7点あり、いずれも正昭院に関わる文書で、武田氏時代のものである。正昭院は武田氏の祈願所となり、1524(大永4)の「武田元光判物」からは守護武田元光が正昭院領の諸役を免除し、32年(享禄5)には無縁所である当寺の寺法を定めたという内容の書状を正昭院宛に出している。これは駆け込み寺としての特権を戦国大名が具体的に規定したものとして注目される。一方、24年の「武田元光袖判正照院寄進地目録」には在地有力武士や近在の寺社・百姓・鋳物師などの名がみえ、ひろく信仰を集めていたことがわかる。
近世文書は(1)縁起類、(2)寺送証文、(3)無尽・借用証文、(4)安堵状類、(5)その他に分類される。
(1)は1605年(慶長10)の「若狭国遠敷郡万徳寺正照院縁起」や75年(延宝3)の「若州小浜城弁才天社縁起」など。
(3)では1851年(嘉永4)の「奉願上口上之覚」がある。これは萬徳寺が庫裡修復料調達のため無尽取結びを願い出た時の願書控えであり、これが許可されたことは52年から54年にかけての無尽銀預りの証文があることからわかる。
(4)では1601年(慶長7)に大覚寺末となった時に門跡の要請により、京極高次が金屋村の内で高10石を寄進した。これは子忠高、さらには酒井氏入国後も引き続いて安堵されることになる。また酒井忠勝は当寺を小浜城内弁才天の別当とし、歴代別当料として蔵米5俵を扶持したことがわかる。
(5)は1843年(天保14)の「花見会帳」や44年の「三千仏講人数帳」、払木願など。
近代文書は宗旨送り状や1876年(明治9)の地租改正反別扣など。
中世文書は戦国期のものが7点あり、いずれも正昭院に関わる文書で、武田氏時代のものである。正昭院は武田氏の祈願所となり、1524(大永4)の「武田元光判物」からは守護武田元光が正昭院領の諸役を免除し、32年(享禄5)には無縁所である当寺の寺法を定めたという内容の書状を正昭院宛に出している。これは駆け込み寺としての特権を戦国大名が具体的に規定したものとして注目される。一方、24年の「武田元光袖判正照院寄進地目録」には在地有力武士や近在の寺社・百姓・鋳物師などの名がみえ、ひろく信仰を集めていたことがわかる。
近世文書は(1)縁起類、(2)寺送証文、(3)無尽・借用証文、(4)安堵状類、(5)その他に分類される。
(1)は1605年(慶長10)の「若狭国遠敷郡万徳寺正照院縁起」や75年(延宝3)の「若州小浜城弁才天社縁起」など。
(3)では1851年(嘉永4)の「奉願上口上之覚」がある。これは萬徳寺が庫裡修復料調達のため無尽取結びを願い出た時の願書控えであり、これが許可されたことは52年から54年にかけての無尽銀預りの証文があることからわかる。
(4)では1601年(慶長7)に大覚寺末となった時に門跡の要請により、京極高次が金屋村の内で高10石を寄進した。これは子忠高、さらには酒井氏入国後も引き続いて安堵されることになる。また酒井忠勝は当寺を小浜城内弁才天の別当とし、歴代別当料として蔵米5俵を扶持したことがわかる。
(5)は1843年(天保14)の「花見会帳」や44年の「三千仏講人数帳」、払木願など。
近代文書は宗旨送り状や1876年(明治9)の地租改正反別扣など。
県史収載
『福井県史 資料編9 中・近世七』P.549-553 7点
県史以外の収載
『小浜市史』、『越前若狭古文書選』、『若狭遠敷郡誌』、網野善彦「若狭の駆込み寺-萬徳寺の寺法をめぐって-」『小浜市史紀要』4、網野善彦『無縁・公界・楽』、湯峯愛「中世後期の地域社会における地方寺社の存在形態:若狭国遠敷郡を事例に」(『市大日本史.』15 2012年)
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
O0751~O0753
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