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福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
O0093
資料群名
栗駒清左衛門家文書
地域(近世,行政村,現在)
遠敷郡矢代浦,内外海村矢代,小浜市矢代
資料の年代
1155年(久寿2)~1888年(明治21)
資料目録件数
146
組織歴および履歴
矢代浦は若狭湾の内浦である田烏湾に面して位置する漁村で小浜藩領。村高は「正保郷帳」「元禄郷帳」ともに25石余、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに27石余。
栗駒家は中世以来矢代浦に居住し代々刀祢職に補任された。近世には庄屋を務めた。
栗駒家は中世以来矢代浦に居住し代々刀祢職に補任された。近世には庄屋を務めた。
資料群の概要
当家の中世文書は26点、近世文書は110点余、近代文書は10点弱である。
中世文書では1291年(正応4)に栗駒延成が矢代浦の刀祢に補任されたことがみえるが、南北朝期以前の日付をもつものには検討すべきものが多い。その他の中世文書には浦年貢銭の請取状や算用状、および小成物の納入やそれに伴う儀礼を記した指出など、戦国期の浦を考えるうえで重要な資料がある。
近世文書は(1)入会山、(2)漁業、(3)争論、(4)売券・借用証文、(5)その他に分類される。
(1)には山請状、山分などの文書がある。
(2)には鰯・鯵・鯖など多様な網場の借用状・請状、それらをめぐる浦内外との争論などがある。1605年(慶長10)の「沖長門守判物」によれば、宇久浦との間にくすや網場をめぐる争論があったが、沖長門守の裁許によってこの網場は矢代浦の所有と認められた。
(3)には村民と当家の争論文書がある。桑村文書(O0088-00047)の1602年(慶長7)「若狭国浦々漁師船等取調帳」には船22艘・所有者15名・鯖網1張がみえるが、90年(元禄3)の当家文書「矢代浦明細指出覚」では高持百姓30名・船31艘に増加している。その結果、1712年(正徳2)「矢代浦山分ケニ付法度書」では山の持ち分の確定がなされたり、21年(享保6)「庄屋不法ニ付矢代浦百姓等願書」によって、中世以来入会山や漁場などに関して大きな力を振っていた庄屋栗駒家の行状への弾劾が行われたりするなど、高持百姓の地位が向上していったことがうかがわれる。
(5)は賀茂明神の修復に関するものや書状など。
近代文書は石山借用や矢代浦の観世音略縁起などがある。
否撮カードはない。
中世文書では1291年(正応4)に栗駒延成が矢代浦の刀祢に補任されたことがみえるが、南北朝期以前の日付をもつものには検討すべきものが多い。その他の中世文書には浦年貢銭の請取状や算用状、および小成物の納入やそれに伴う儀礼を記した指出など、戦国期の浦を考えるうえで重要な資料がある。
近世文書は(1)入会山、(2)漁業、(3)争論、(4)売券・借用証文、(5)その他に分類される。
(1)には山請状、山分などの文書がある。
(2)には鰯・鯵・鯖など多様な網場の借用状・請状、それらをめぐる浦内外との争論などがある。1605年(慶長10)の「沖長門守判物」によれば、宇久浦との間にくすや網場をめぐる争論があったが、沖長門守の裁許によってこの網場は矢代浦の所有と認められた。
(3)には村民と当家の争論文書がある。桑村文書(O0088-00047)の1602年(慶長7)「若狭国浦々漁師船等取調帳」には船22艘・所有者15名・鯖網1張がみえるが、90年(元禄3)の当家文書「矢代浦明細指出覚」では高持百姓30名・船31艘に増加している。その結果、1712年(正徳2)「矢代浦山分ケニ付法度書」では山の持ち分の確定がなされたり、21年(享保6)「庄屋不法ニ付矢代浦百姓等願書」によって、中世以来入会山や漁場などに関して大きな力を振っていた庄屋栗駒家の行状への弾劾が行われたりするなど、高持百姓の地位が向上していったことがうかがわれる。
(5)は賀茂明神の修復に関するものや書状など。
近代文書は石山借用や矢代浦の観世音略縁起などがある。
否撮カードはない。
県史収載
資料編9 P.98-124 42点、通史編2 P.539、3-P.61・P.83・P.292
県史以外の収載
『小浜市史』、『若狭漁村史料』、橘弘文「祭りの参詣者による伝承と記録:福井県小浜市矢代の手杵祭から」(『大阪観光大学紀要』7 2007年)
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
O0980~O0982
関連資料一覧
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