大橋脇左衛門家文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
O0082
資料群名
大橋脇左衛門家文書
地域(近世,行政村,現在)
遠敷郡仏谷浦,内外海村仏谷,小浜市仏谷
資料の年代
1553年(天文22)~1874年(明治7)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
仏谷浦は内外海半島の小浜湾に臨む浦である。小浜藩領で村高は137石8斗4升、1667年(寛文7)の家数25軒であった。耕地の多くは隣村堅海浦と入り組んでおり、村の生業は山と海に大きく依存していた。
大橋家は中世以来仏谷浦に居住し、近世には代々脇左衛門を称し庄屋を務めた。
資料群の概要
当家の所蔵する文書は415点で、近世の若狭湾の浦の実態を知る上で貴重な史料である。
中世文書は3点伝存するが、2点は内容が重複する。1553年(天文22)の売券によれば仏谷村惣中は「開発四村之惣中」より「ふくら山」を買得したが、これは元来仏谷浦が領有していたものであった。75年(天正3)の「孝吉山海境定状」では仏谷村の山林・海上の境を定めており、東の境の一つに「ふくら山」がみえている。
資料群の大半を占める近世文書は(1)漁業関係、(2)庄屋関係、(3)貢租、(4)山関係、(5)借用状・売券、(6)その他、に大別される。とりわけ近世初期のものは、近世村落として確立してゆく過程でおこった諸問題を知る上で貴重で、村域の未確定からおこる泊浦・堅海浦との入会山・網場をめぐる争論文書が中心である。他に1633年(寛永10)の願書には「百性共ニなわをかけさんさんにいため被成、」「(その者が死にかける様子と見るや)又のこつてのものをしばりかへ、又しばりかへ御いため被成」などと苛酷な年貢の取立てを示すものもある。これらの中には1732年(享保17)に補修されて伝えられているものもあり、これらの文書の村における重要性を意味するものであろう。
この他(1)には漁場・網場争論の他に網漁法、あわび・さざえ・なまこ漁の海請証文がある。
(2)は幕府の触達、村法類などがある。法度状は多くの場合庄屋に対する村民の請状の形をとっているが、とくに注目されるのは、家の代表者のみならず各家のちい(爺)・はゝ(婆)うは(姥)なども参加し(中には息子が参加しているものもある)、花押・略押・印・拇印などで加判している例が多々見られることである。これによって、何事も寄合で決定した村の姿や、村人の構成を知ることができ非常に興味深い。
(3)は年貢免状・同請負状、年貢小前帳、根付目録など。
(4)はころびの盗伐などをめぐる争論のほか、材木の伐採願いが大量に存在する。このうち1700年前後(元禄-享保期)のものははさ場に用いるためのものが多く、19世紀には困窮のための売却が多い。
(6)には天候不順で遭難、漂着した船関係の資料が数多くあり、その船主や積荷の内容、難船の状況やその後の処置などが具体的に知られる。また、1668年(寛文8)高松藩主松平頼常が義弟有馬頼利の病死に際して酒井忠直から悔み状を貰ったのに対する返書があるが、この文書が大橋家に伝来するに至った経緯は不明。さらに24年(元和10)の「大坂普請人足ニ付仏谷村請状」は仏谷の百姓宮わきなる人物が、大坂への普請出役のため東勢井村へ切米7石で雇われたことに関するものであるが、「今度大坂御普請」とは、幕府が命じた大坂城修築を指している。東勢井村は旧小浜町よりさらに西に位置する対岸の村であるが、舟を用いての往来がかなり頻繁であったことを思わせる。
明治期の文書は1873・74年(明治6・7)の年貢小前帳2点である。
否撮カードは24枚、売券・詫状類だが、ほとんどのものは破損の程度が大きい。
利用条件
 
県史収載
資料編9 P.34-55 27点、通史編3 P.152・P.312・P.454 通史編4 P.228・P.246
県史以外の収載
『小浜市史』
複製本番号
O0802~O0809
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。