管理セクション
福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
O0077
資料群名
小林孫助家文書
地域(近世,行政村,現在)
遠敷郡田烏村,内外海村田烏,小浜市田烏
資料の年代
1476年(文明8)~1873年(明治6)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
田烏浦は遠敷郡の東端にあって、若狭湾に面した中世以来の浜村である。中世では多烏と表記されることが多く、近世になって田烏に定着した。
当浦には田烏・釣姫(つるべ)・谷及(たんぎょ)・須ノ浦の4集落があり、1679年(延宝7)より田烏集落の中央を流れる田烏川を境として、北田烏と南田烏に分かれ、前者は田烏北・釣姫・谷及、後者は田烏南・須ノ浦からなり、それぞれに庄屋・組頭が置かれた。村高は131石3斗1升2合、67年(寛文7)の家数127軒であった。
当浦は平安末期に三方郡日向浦より移住した秦氏が開発したと伝え、鎌倉期には郡内の志積浦と同様廻船業を営んだ。
また古くより塩業が盛んで、須ノ浦・谷及・釣姫に塩田が開かれたが、江戸中期には塩師が潰れ、かわってころび畑(桐実畑)が開かれるようになった。
当家は北田烏浦にあり、庄屋や組頭などの村役人を務めた。
当浦には田烏・釣姫(つるべ)・谷及(たんぎょ)・須ノ浦の4集落があり、1679年(延宝7)より田烏集落の中央を流れる田烏川を境として、北田烏と南田烏に分かれ、前者は田烏北・釣姫・谷及、後者は田烏南・須ノ浦からなり、それぞれに庄屋・組頭が置かれた。村高は131石3斗1升2合、67年(寛文7)の家数127軒であった。
当浦は平安末期に三方郡日向浦より移住した秦氏が開発したと伝え、鎌倉期には郡内の志積浦と同様廻船業を営んだ。
また古くより塩業が盛んで、須ノ浦・谷及・釣姫に塩田が開かれたが、江戸中期には塩師が潰れ、かわってころび畑(桐実畑)が開かれるようになった。
当家は北田烏浦にあり、庄屋や組頭などの村役人を務めた。
資料群の概要
当家の中世文書は1476年(文明8)の居屋敷売券など、売券4点である。
近世文書は120点余あり、(1)漁業関係、(2)貢租、(3)救恤、(4)借用状・売券類、(5)その他に分けられる。
(1)では寛永年間(1624-44)の網場覚があり、南北両田烏の網場定は、近世初頭の田烏浦での漁業の様子をよく示している。
また1729年(享保14)の「田烏浦網場ニ付覚書」は網の種類とその所有形態を示したもので、近世漁村が中世を継承した面(ハマチ網場は「南田烏年寄百姓廻り之場」と記されている)と全く新しい側面(しめ場・あじ場・ハマチ網場は「銘々古来ノ場所持仕候」とある)とをあわせ持ったことがわかる。
(2)は1669年(寛文9)の検地帳の他、年貢免状(化政期)・根付目録など。
(3)は御用金免除願や材木伐採願など。
(5)には1690年(元禄3)の下中郡村鑑がある。
近代文書は13点、いずれも明治初年の立木伐採願・検見願・借用米願などである。
否撮カードはない。
近世文書は120点余あり、(1)漁業関係、(2)貢租、(3)救恤、(4)借用状・売券類、(5)その他に分けられる。
(1)では寛永年間(1624-44)の網場覚があり、南北両田烏の網場定は、近世初頭の田烏浦での漁業の様子をよく示している。
また1729年(享保14)の「田烏浦網場ニ付覚書」は網の種類とその所有形態を示したもので、近世漁村が中世を継承した面(ハマチ網場は「南田烏年寄百姓廻り之場」と記されている)と全く新しい側面(しめ場・あじ場・ハマチ網場は「銘々古来ノ場所持仕候」とある)とをあわせ持ったことがわかる。
(2)は1669年(寛文9)の検地帳の他、年貢免状(化政期)・根付目録など。
(3)は御用金免除願や材木伐採願など。
(5)には1690年(元禄3)の下中郡村鑑がある。
近代文書は13点、いずれも明治初年の立木伐採願・検見願・借用米願などである。
否撮カードはない。
県史収載
資料編9 P.268-298 30点、通史編2 P.579・P.942・P.947、通史編3 P.72・P.88・P.149・P.151・P.255・P.273・P.280・P.286・P.290・P.291・P.322・P.784 通史編4 P.380・P.401
県史以外の収載
 
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
O0730~O0733
関連資料一覧
縮小画像の表示/非表示
表示
件
表示順