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福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
N0080
資料群名
須田悦生家文書
地域(近世,行政村,現在)
三方郡佐柿村,耳村佐柿,美浜町佐柿
資料の年代
1656年(明暦2)~1885年(明治18)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
佐柿村は御岳山の北西麓に位置する。古くから若狭へ入る交通の要衝として重要視され、小浜藩の陣屋がおかれていた。村高は「正保郷帳」では724石余、「元禄郷帳」では725石余、「天保郷帳」では729石余である。
須田家は小浜藩士で、初代茂助安通は1668年(寛文8)に小坊主に召し抱えられ、4代兵右衛門安実は敦賀町奉行、5代六郎右衛門安秀は旗奉行の職にあった。7代鑓五郎安崇は小浜町奉行を経て明治維新後小浜藩権少参事になっている。1874年(明治7)、安崇は敦賀県第4大区の区長に就任し、この時に須田家は小浜町から会所のあった佐柿村に移住した。
須田家は小浜藩士で、初代茂助安通は1668年(寛文8)に小坊主に召し抱えられ、4代兵右衛門安実は敦賀町奉行、5代六郎右衛門安秀は旗奉行の職にあった。7代鑓五郎安崇は小浜町奉行を経て明治維新後小浜藩権少参事になっている。1874年(明治7)、安崇は敦賀県第4大区の区長に就任し、この時に須田家は小浜町から会所のあった佐柿村に移住した。
資料群の概要
近世文書は絵図40点を含めて小浜藩関係の武家文書が108点あり、(1)須田家の家譜・由緒書、(2)藩法、(3)分限帳、(4)絵図、(5)その他に分類される。
(1)では1877年(明治10)の「須田家自初代至六代由緒書」や「第七代須田安崇履歴書」などから須田家の家格と由緒がうかがえる。
(2)では古格を集大成した1710年(宝永7)の「古格大概」があり、小浜の町方に関わるものが注目される。これによれば、防火のため41年(寛保1)に竈の設置について町の宿老が各家を見分して規定通りに改めさせたこと、また、1684年(貞享1)の「小浜町奉行御条目十九ケ条之写」の中で町人の火事番を定め、火事の場合に消火にあたるよう申し付けていることなどがわかる。
(4)には若狭国絵図や小浜町絵図など多彩な絵図がある。
(5)には1833年(天保4)の「年々珍事書留」がある。これは1766年(明和3)以降の小浜領内を中心とした見分記録であり、84年(天明4)の敦賀での打毀しが「郷中八拾八ケ村より申合凡三千人斗出候由也」規模であったことや、92年(寛政4)に大相撲がきて7尺3寸の大男が登場し、5日間で合計6,000人もの見物人がいたことなどが記されている。
近代文書は滋賀県会議日誌や書簡類など44点。
否撮カードは明治期の書簡類など18点。
(1)では1877年(明治10)の「須田家自初代至六代由緒書」や「第七代須田安崇履歴書」などから須田家の家格と由緒がうかがえる。
(2)では古格を集大成した1710年(宝永7)の「古格大概」があり、小浜の町方に関わるものが注目される。これによれば、防火のため41年(寛保1)に竈の設置について町の宿老が各家を見分して規定通りに改めさせたこと、また、1684年(貞享1)の「小浜町奉行御条目十九ケ条之写」の中で町人の火事番を定め、火事の場合に消火にあたるよう申し付けていることなどがわかる。
(4)には若狭国絵図や小浜町絵図など多彩な絵図がある。
(5)には1833年(天保4)の「年々珍事書留」がある。これは1766年(明和3)以降の小浜領内を中心とした見分記録であり、84年(天明4)の敦賀での打毀しが「郷中八拾八ケ村より申合凡三千人斗出候由也」規模であったことや、92年(寛政4)に大相撲がきて7尺3寸の大男が登場し、5日間で合計6,000人もの見物人がいたことなどが記されている。
近代文書は滋賀県会議日誌や書簡類など44点。
否撮カードは明治期の書簡類など18点。
県史収載
資料編8 P.515-535 5点、資料編16上 №8・№23 解説・解題P.21-22・P.47・P.59-60、通史編4 P.320・P.505・P.506・P.573・P.666
県史以外の収載
『わかさ美浜町誌 第7巻』
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
N0696~N0705、N0707~N0711
関連資料一覧
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