管理セクション
福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
N0067
資料群名
早瀬区有文書
地域(近世,行政村,現在)
三方郡早瀬浦,西郷村早瀬,美浜町早瀬
資料の年代
1446年(文安3)~1941年(昭和16)
資料目録件数
1146
組織歴および履歴
早瀬浦は久々子湖の北岸、若狭湾とを結ぶ早瀬川の両側に位置し、若狭湾に臨む。東は飯切山を境に久々子村、西は飯盛山を越えて日向浦と接する。
中世では、鎌倉後期に春日社領となった耳西郷に属した。南北朝期より、耳西郷半分地頭職を京都臨泉寺・天竜寺が有し、早瀬に政所をおいていた。
江戸時代を通して小浜藩領で、村高は「正保郷帳」で109石余、「元禄郷帳」で167石余、「天保郷帳」で174石余。戸数は郡内最大で、枝村の笹田分22戸を含めて1807年(文化4)には225戸であった。
中世では、鎌倉後期に春日社領となった耳西郷に属した。南北朝期より、耳西郷半分地頭職を京都臨泉寺・天竜寺が有し、早瀬に政所をおいていた。
江戸時代を通して小浜藩領で、村高は「正保郷帳」で109石余、「元禄郷帳」で167石余、「天保郷帳」で174石余。戸数は郡内最大で、枝村の笹田分22戸を含めて1807年(文化4)には225戸であった。
資料群の概要
早瀬区有文書は旧来の庄屋文書を引き継いだもので、1,300点を超える大部な文書群である。うち中世文書は3点で、字体から近世の写と考えられる1446年(文安3)の請文写、1502年(文亀2)の久々子浦との網場争論を伝える渡辺遠房置文がある。早瀬浦と久々子浦との網場争論は、応永から永享年間(1394-1441)にかけて行われ、領主の天竜寺から下知状が発せられていた(上野山九十九家文書N0068参照)。1502年の文書では、当初武田氏の裁判によって久々子方に網場の権利が認められていたが、双方の領主である山中・粟屋両氏の了解のもとで早瀬浦の渡辺遠房に網の権利が認められたとしている。この渡辺氏は日向浦刀祢渡辺氏(渡辺六郎右衛門家文書N0016参照)と何らかの関連を持ち、早瀬浦で指導的立場にあった人物かと思われる。
また、1584年(天正12)の木村由信判物からは、この時期の木村隼人佐の三方郡領知が確認でき、常神半島の東側のくるみ浦が早瀬浦の知行下にあったことがわかる。
近世文書は(1)土地・年貢、(2)漁業、魚商、(3)その他村方一般にわたっており、船改・海難を含む(2)の浦方文書に特色がある。幕末に当浦で盛んとなった千歯扱の製造と販売に関する資料は現存しない。
(1)1684年(貞享1)以降の年貢免定26点、名寄帳、五人組改帳などがある。
(2)早瀬・日向浦はくるみ浦をめぐる網場争論を繰り返し、1608年(慶長13)には大網場と烏賊網場を交替することで一応決着した。大網漁は三方郡で中世末から登場したが、49年(慶安2年)には日向浦が大網の向きを東に変えたとして争論が起こった(上野山九十九家文書参照)。
三方郡の浦々と敦賀両浜・今浜との争論文書もあり、65年(寛文5)の漁場争論については、渡辺六郎右衛門家文書と上野山九十九家文書(付図)に関連文書があり、敦賀方の文書は「寛文雑記」に掲載されている(『敦賀市史』)。
船改帳・割帳は45点で、1799年(寛政11)の船改からは、廻船7艘、漁船29艘があり、その貼紙から1811年(文化8)、59年(安政6)にはそれぞれ9艘・51艘、10艘・45艘とあり、59年にはこの他に鉄船2艘と村船1艘があげられていた。
江戸末期、従来5人乗りの鯛縄仲間で取り仕切っていた3月8日の祭礼の維持が困難となり、沖手繰仲間がこれに加勢することになった。なお、久々子湖のえり漁を始めた甚太夫は「川渡甚太夫一代記」(師岡佑行編『北前船頭の幕末自叙伝』)の著者である。
また為登荷物関連は約130点で、三方郡の魚荷物は、享保年間(1716-36)熊川を通って上方へ送られており、問屋も熊川の泉屋仁兵衛1軒に定められていた。その後貸付金の関係で問屋も泉屋から菱屋に替わる。大網の仕込銀借用、氏神御輿修復料などの寄進を熊川・今津・京都の問屋に頼っており、浦方と問屋との関係が注目される。継荷をめぐって浦方と熊川宿との間でたびたび争論が起こっており、1756年(宝暦6)に至って京都店掛けの荷物は通さないことになったので訴訟となるが、荷駄・背持荷共に宿駅継荷とする裁許が下された。その後も店掛荷をめぐって争論が続いた。
(3)では算用帳・取立帳、火事、疫病、飢饉時の救恤、講、寺社関係(山王宮・河濯社、瑞林寺・浄妙寺など約200点)がある。
近代文書は33点で、漁場拝借願、1882年の船持人名簿・漁業人名簿、1911年の漁業税収入帳などである。
否撮資料は近世を中心に約210点におよぶ。概要は、宗門送り状約50点、村年賦銀取立帳・算用帳・難渋人救米関係の長帳約100冊、波除・橋普請関係の長帳20冊。
また、1584年(天正12)の木村由信判物からは、この時期の木村隼人佐の三方郡領知が確認でき、常神半島の東側のくるみ浦が早瀬浦の知行下にあったことがわかる。
近世文書は(1)土地・年貢、(2)漁業、魚商、(3)その他村方一般にわたっており、船改・海難を含む(2)の浦方文書に特色がある。幕末に当浦で盛んとなった千歯扱の製造と販売に関する資料は現存しない。
(1)1684年(貞享1)以降の年貢免定26点、名寄帳、五人組改帳などがある。
(2)早瀬・日向浦はくるみ浦をめぐる網場争論を繰り返し、1608年(慶長13)には大網場と烏賊網場を交替することで一応決着した。大網漁は三方郡で中世末から登場したが、49年(慶安2年)には日向浦が大網の向きを東に変えたとして争論が起こった(上野山九十九家文書参照)。
三方郡の浦々と敦賀両浜・今浜との争論文書もあり、65年(寛文5)の漁場争論については、渡辺六郎右衛門家文書と上野山九十九家文書(付図)に関連文書があり、敦賀方の文書は「寛文雑記」に掲載されている(『敦賀市史』)。
船改帳・割帳は45点で、1799年(寛政11)の船改からは、廻船7艘、漁船29艘があり、その貼紙から1811年(文化8)、59年(安政6)にはそれぞれ9艘・51艘、10艘・45艘とあり、59年にはこの他に鉄船2艘と村船1艘があげられていた。
江戸末期、従来5人乗りの鯛縄仲間で取り仕切っていた3月8日の祭礼の維持が困難となり、沖手繰仲間がこれに加勢することになった。なお、久々子湖のえり漁を始めた甚太夫は「川渡甚太夫一代記」(師岡佑行編『北前船頭の幕末自叙伝』)の著者である。
また為登荷物関連は約130点で、三方郡の魚荷物は、享保年間(1716-36)熊川を通って上方へ送られており、問屋も熊川の泉屋仁兵衛1軒に定められていた。その後貸付金の関係で問屋も泉屋から菱屋に替わる。大網の仕込銀借用、氏神御輿修復料などの寄進を熊川・今津・京都の問屋に頼っており、浦方と問屋との関係が注目される。継荷をめぐって浦方と熊川宿との間でたびたび争論が起こっており、1756年(宝暦6)に至って京都店掛けの荷物は通さないことになったので訴訟となるが、荷駄・背持荷共に宿駅継荷とする裁許が下された。その後も店掛荷をめぐって争論が続いた。
(3)では算用帳・取立帳、火事、疫病、飢饉時の救恤、講、寺社関係(山王宮・河濯社、瑞林寺・浄妙寺など約200点)がある。
近代文書は33点で、漁場拝借願、1882年の船持人名簿・漁業人名簿、1911年の漁業税収入帳などである。
否撮資料は近世を中心に約210点におよぶ。概要は、宗門送り状約50点、村年賦銀取立帳・算用帳・難渋人救米関係の長帳約100冊、波除・橋普請関係の長帳20冊。
県史収載
資料編8 P.597-643 41点、通史編2 P.785、通史編3 P.72、通史編4 P.219・P.247・P.248
県史以外の収載
『若狭漁村史料』、『わかさ美浜町誌 第7巻』
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
N0588~N0591、N0598~N0671
関連資料一覧
縮小画像の表示/非表示
表示
件
表示順