渡辺市左衛門家文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
N0062
資料群名
渡辺市左衛門家文書
地域(近世,行政村,現在)
三方郡世久見浦,田井村世久見,若狭町世久見(三方町)
資料の年代
1087年(寛治1)~1929年(昭和4)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
世久見浦は常神半島の付け根の西側の浦で、南北朝ごろまでは背後の山を越えた食見谷を含めて能登浦と称した。小浜藩領。高は「正保郷帳」では世久見村とみえ80石余、「天保郷帳」では100石余。枝浦に食見浦がある。
渡辺家は中世には刀祢職を有し一左衛門を名乗り、近世に入ると市郎左衛門又は市左衛門と称し庄屋役を、また明治期には西田村の村長を務めた。
資料群の概要
撮影資料412点のうち中世文書は22点である。このうち、1087年(寛治1)の「地頭宗貞能登浦四至定状写」と1233年(天福1)の「神社方田数付立」の2点は当時の文書とは考えられない。世久見浦は鎌倉期に国衙税所領であったが、南北朝期には新日吉社領倉見荘に属していたことが1474年(文明6)の「能登浦四至定文等案」からわかる。92年(明応1)の「世久見浦惣中連署山畠売券」によれば、浦の稼業として網と塩釜がみえる。また、1587年(天正15)の「浅野長吉長政掟書」は太閤検地の「作あい」否定の原則を示す文書と評価されて以来、全国的に著名となった文書である。
近世文書は258点であり、(1)支配、(2)救恤、(3)争論、(4)貢租、(5)山、(6)漁業、(7)売券類に分類される。
(1)には幕府船条目などがある。
(3)には枝村食見浦との争論がある。1813年(文化10)の「世久見浦食見浦庄屋組頭惣百姓共江申渡」によれば、独立を願い出た食見浦に対して、庄屋の二人制を認めたが、完全な独立は許されていない。
(4)は1689年(元禄2)-1869年(明治2)の年貢免状など。
(5)には塩木の入手をめぐる食見浦との争論がある。食見浦は不足する塩木のため、寛永期にしばしば世久見浦の長百姓10人の個人持ちの山に切り込み、訴えられた。そのため、1654年(承応3)には立合山を13個所に小割し、その小割した山を年銀100匁で世久見浦から永請することが65年(寛文5)に定められた。
(6)の1606年(慶長11)「世久見網場ニ付三方郡・中郡刀祢扱状写」は、世久見の網場をめぐる田烏浦との争論を三方郡・中郡の刀祢の仲裁により解決したものである。また、56年(明暦2)の「世久見浦網場」は世久見浦の大網場(浦方共有の網場)その他の網場帳である。ここでは大網場6個所のうち2個所が庄屋給分としてあてがわれていたことがわかる。
近代文書は132点であり、そのほとんどが漁場関係のものである。とくに世久見浦と塩坂越浦との漬木場をめぐる争論では、世久見浦が1875年(明治8)に敦賀県に吟味願を提出し、76年に滋賀県庁の役人の取調べを経て、数か村副戸長立会のもと、漬木場の3割を塩坂越浦が借り受ける形で決着した。しかし、その後も争論は続いている。さらに97年には新規曳網購入の件で村役人と区民の間に争論がおきている。その他には漁業税に関する文書や、石灰石採掘に関する文書などがある。
否撮カードは近代の土地関係書類、選挙関係書類、卒業証書など47枚。
利用条件
 
県史収載
資料編8 P.1014-1034 33点、通史編2 P.808・P.957、通史編3 P.86・P.290・P.304・P.470、通史編4 P.611・P.615、通史編5 P.520
県史以外の収載
『越前若狭古文書選』『三方郡誌』『若狭漁村史料』『三方町史』
複製本番号
N0415~N0424
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。