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福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
N0055
資料群名
桜井市兵衛家文書
地域(近世,行政村,現在)
三方郡世久見浦,田井村世久見,若狭町世久見(三方町)
資料の年代
1588年(天正16)~1952年(昭和27)
資料目録件数
977
組織歴および履歴
世久見浦は、若狭湾に臨む常神半島の西側に位置する。小浜藩領で石高は正保郷帳・元禄郷帳では80石余、天保郷帳では100石余。食見(しきみ)は世久見浦の枝浦である。
食見のものと考えられる1683年(天和3)から85年(貞享2)の「吉利支丹帳」(00004、00145、00146)では、食見は家数24-25軒、人数は151-154人であった。
桜井家については1665年(寛文5)6月の「わり申山之覚」(00205)で、11人ほどの食見塩師の筆頭に「市兵衛」の名がみえ、食見全体の山手銀年間100匁のうち13匁9分を負担していた。また「紙屋」の屋号で油桐(ころび)畑も所持して油桐の販売にもかかわっていた。
近代では、明治20年代なかばから大正期はじめまで食見区長を務めており、また第4回内国勧業博覧会(1895年)や第2回水産博覧会(97年)に関係した書類や褒状から、明治30年代に入るまで製塩業にも熱心に取り組んでいた。
2006年12月当館に寄贈。
食見のものと考えられる1683年(天和3)から85年(貞享2)の「吉利支丹帳」(00004、00145、00146)では、食見は家数24-25軒、人数は151-154人であった。
桜井家については1665年(寛文5)6月の「わり申山之覚」(00205)で、11人ほどの食見塩師の筆頭に「市兵衛」の名がみえ、食見全体の山手銀年間100匁のうち13匁9分を負担していた。また「紙屋」の屋号で油桐(ころび)畑も所持して油桐の販売にもかかわっていた。
近代では、明治20年代なかばから大正期はじめまで食見区長を務めており、また第4回内国勧業博覧会(1895年)や第2回水産博覧会(97年)に関係した書類や褒状から、明治30年代に入るまで製塩業にも熱心に取り組んでいた。
2006年12月当館に寄贈。
資料群の概要
当館への寄贈資料群であり、(1)世久見浦の枝浦である食見の村方文書、(2)桜井家の家文書から構成されている。
(1)県史収載の太閤検地帳(00001)は、三方郡内の太閤検地帳で浦方のものはこれのみであるとされている。枝浦の食見の人々は漁業権をもたず、江戸時代初頭から製塩業に従事していた。塩焼きに必要な木材をえるため、本村の世久見浦に山手米(銀)を納めて入山してきたが、それらの伐採や山境をめぐって寛永期以降、本村の世久見浦との間でたびたび争論が起こっていた(松宮太郎太夫家文書N0058-00003-002)。
1807年(文化4)には「食見浦庄屋市兵衛」の名称で借用証文(00048)が残されており、さらに09年から11年にかけて、食見として村惣船を拵えたいとする願書や油桐に関連した「油納屋」修繕のための願書が同じく「食見浦庄屋」の名称で出されている(00049-00054)。12年には種々の不都合から年貢の通分け、すなわち分村を藩の郡方・郷方役所へ願い出たものの認められなかった。こうした争論に関する願書やその裁許状は、食見が枝村であったこともあり、大半が写しとして残されている。世久見の松宮太郎太夫家(N0058)や渡辺市左衛門家(N0062)の資料群をあわせて参照いただきたい。
また、1718年(享保2)から63年(宝暦13)にかけて若狭馬借の元締めであった小浜町の窪田手間助から「食見村庄屋」あての馬喰米の請取状26点(00074-00099)がある。窪田手間助は、小浜の町人であり、藩から馬借の支配と登り荷に課せられた通行税である沓代の徴収を任され、見返りとして馬借から馬喰銭(米)の徴収が認められていた 。この馬喰米の請取状からこの頃市兵衛を含む食見の人々が荷物の運搬にもかかわっていたことがわかる(窪田手間助の請取状はほかに1808年(文化5)のものが1点ある)。
(2)製塩や油桐など家業の概要がある程度わかるものの、まとまった帳簿類は残されていないため、残念ながら経営状態を一定の期間まとめて知りうる資料は少ない。半面、もっとも豊富に残されているのは、俳諧句集を含む蔵書類や留書などの文化的な資料である。300冊をこえる蔵書には江戸初期からのものが含まれ、刷りの鮮明な状態のいいものが多い。一部については、入手の経緯(00341・00343・00345・000347・000349)や購入時の控がわかる(00340・00348)。また18世紀中頃に食見から京都の点者へ送った句集を含む俳諧(雑俳)句集約70冊に加え、同じ頃を中心に残された聞書・留書(ほとんどが一紙)約70点、さらに折り跡があったり、学習者が明記されたりしている19世紀に入ってからの手習の手本約20点などである。
否撮資料は、義太夫や能、宗教関係の古書類を中心に116点である。
(1)県史収載の太閤検地帳(00001)は、三方郡内の太閤検地帳で浦方のものはこれのみであるとされている。枝浦の食見の人々は漁業権をもたず、江戸時代初頭から製塩業に従事していた。塩焼きに必要な木材をえるため、本村の世久見浦に山手米(銀)を納めて入山してきたが、それらの伐採や山境をめぐって寛永期以降、本村の世久見浦との間でたびたび争論が起こっていた(松宮太郎太夫家文書N0058-00003-002)。
1807年(文化4)には「食見浦庄屋市兵衛」の名称で借用証文(00048)が残されており、さらに09年から11年にかけて、食見として村惣船を拵えたいとする願書や油桐に関連した「油納屋」修繕のための願書が同じく「食見浦庄屋」の名称で出されている(00049-00054)。12年には種々の不都合から年貢の通分け、すなわち分村を藩の郡方・郷方役所へ願い出たものの認められなかった。こうした争論に関する願書やその裁許状は、食見が枝村であったこともあり、大半が写しとして残されている。世久見の松宮太郎太夫家(N0058)や渡辺市左衛門家(N0062)の資料群をあわせて参照いただきたい。
また、1718年(享保2)から63年(宝暦13)にかけて若狭馬借の元締めであった小浜町の窪田手間助から「食見村庄屋」あての馬喰米の請取状26点(00074-00099)がある。窪田手間助は、小浜の町人であり、藩から馬借の支配と登り荷に課せられた通行税である沓代の徴収を任され、見返りとして馬借から馬喰銭(米)の徴収が認められていた 。この馬喰米の請取状からこの頃市兵衛を含む食見の人々が荷物の運搬にもかかわっていたことがわかる(窪田手間助の請取状はほかに1808年(文化5)のものが1点ある)。
(2)製塩や油桐など家業の概要がある程度わかるものの、まとまった帳簿類は残されていないため、残念ながら経営状態を一定の期間まとめて知りうる資料は少ない。半面、もっとも豊富に残されているのは、俳諧句集を含む蔵書類や留書などの文化的な資料である。300冊をこえる蔵書には江戸初期からのものが含まれ、刷りの鮮明な状態のいいものが多い。一部については、入手の経緯(00341・00343・00345・000347・000349)や購入時の控がわかる(00340・00348)。また18世紀中頃に食見から京都の点者へ送った句集を含む俳諧(雑俳)句集約70冊に加え、同じ頃を中心に残された聞書・留書(ほとんどが一紙)約70点、さらに折り跡があったり、学習者が明記されたりしている19世紀に入ってからの手習の手本約20点などである。
否撮資料は、義太夫や能、宗教関係の古書類を中心に116点である。
県史収載
資料編8 P.940-948 1点
県史以外の収載
 
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
劣化等保存上の理由から、原本は閲覧できません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
N0884~N0888、N0982~N1116
関連資料一覧
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