管理セクション
福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
N0016
資料群名
渡辺六郎右衛門家文書
地域(近世,行政村,現在)
三方郡日向浦,西郷村日向,美浜町日向
資料の年代
1352年(文和1)~1904年(明治37)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
日向浦は日向湖の北岸に位置し、北は若狭湾に臨み、東は同浦の枝村であった笹田村をはさんで早瀬浦に接する漁村である。村高は正保郷帳では47石5斗(笹田村分6石余を含む)であるが、天保郷帳では76石5斗余に増加した。
渡辺家は少なくとも戦国期には日向浦の刀祢となっており、同時に早瀬・久々子の両政所の支配下で「役人」となっていた(資料編掲載19号)。道という一字名乗りを実名としていることから(32号)、嵯峨源氏の主流摂津渡辺党に出自を有するのであろう。近世では庄屋・組頭などを務め、1699年(元禄12)で18石9斗余の田畑を所持していた。
また宇波西大明神が日向に降り、その後気山村に鎮座した際、当家が太刀をもって供奉したという伝承があり古くから上瀬宮の出神氏とよばれた。その祭礼に太刀を奉じ鮮魚の供物をたずさえて参加することが慣例となっている(「上瀬宮御勧請記」)。
渡辺家は少なくとも戦国期には日向浦の刀祢となっており、同時に早瀬・久々子の両政所の支配下で「役人」となっていた(資料編掲載19号)。道という一字名乗りを実名としていることから(32号)、嵯峨源氏の主流摂津渡辺党に出自を有するのであろう。近世では庄屋・組頭などを務め、1699年(元禄12)で18石9斗余の田畑を所持していた。
また宇波西大明神が日向に降り、その後気山村に鎮座した際、当家が太刀をもって供奉したという伝承があり古くから上瀬宮の出神氏とよばれた。その祭礼に太刀を奉じ鮮魚の供物をたずさえて参加することが慣例となっている(「上瀬宮御勧請記」)。
資料群の概要
福井県史編さんによってはじめて翻刻された資料群であり、中世文書約50点を含む445点が撮影されている。
中世では、日向浦は耳西郷に属し(資料編掲載2号)、耳西郷は鎌倉後期の弘安年間(1278-88)に、後深草天皇中宮東二条院によって奈良の春日社に寄進され、郷内の日向浦と早瀬浦は興福寺大乗院門跡管轄のもとで、興福寺伝法院に恩地として与えられていた(『三箇院家抄』)。南北朝期の1361年(康安1)11月に将軍足利義詮は耳西郷半分地頭職を京都の臨川寺に寄進したので、日向浦も臨川寺・天竜寺の支配がおよぶようになった(8・9・11・14号)。
多数の売券からは、山の本役(本年貢)が塩であることから製塩が行われていたことが知られ(13・16号)、また「渡辺道陳状」(32号)は戦国期のものと推定される文書で、年貢収納のため初めて現地に入部した大通庵の非法を訴えたものがあり注目される。
漁業に関しては網場争論に関するものが多い。係争場となった堺土・赤石・くるみ浦はいずれも常神半島東側の網場で、それらの場所については、上野山九十九家文書3号の絵図を参照されたい。堺土の網場争論として、1594年(文禄3)の「日向浦百姓中申状」(45号)は浅野氏支配末期の訴訟の状況を示して興味深い。
また日向浦が早瀬浦と争ったくるみ浦は中世末には廃絶してしまう浦であるが、「木村由信書状」(51号)にみえる魚見大夫はこのくるみ浦の住人であったと1673年(寛文13)の 「口上之覚(早瀬浦日向浦赤石山争論ニ付)」に記されている。
1583年(天正11)に木村隼人によって定められた海山年貢9貫600文の内訳を、94年(文禄3)に新領主木下勝俊の奉行人に注進した文書は、赤石以下の網場ごとに網代と網場代が記されている珍しい資料である(44号)。なお1496年(明応5)ごろ日向浦の三郎二郎が越前の今泉浦で、はまち網を始めたとあり、当浦の漁業技術の先進性を知ることができる(浜野源三郎家文書1号、資料編6所収)。
近世文書の調査点数は約390点にのぼり、その内容は支配・土地・貢租・漁業・山・村・普請・家関係等多岐にわたる。
漁業関係のものでは、常神半島東側の久留見浦の漁場跡をめぐる早瀬浦との争論のほか、「立廻シ七輪」とよばれる七か所の廻り持ち網場についての村内での争論などがあるが、とりわけ前者においては漁場境だけでなく網の向きや越前甲楽城浦の漁師が持ちこんだ両口の大網など、漁具・漁法そのものも争点となっている。また寛永期(1624-44年)には七人乗の大舟で能登や丹後・但馬へ出漁したことがうかがえ、大音正和家・早瀬区有文書とともに若狭漁師の他国稼ぎが広範に行われていたことがわかり興味深い。1665年(寛文5)には、早瀬・日向など三方郡の浦々の沖延縄場へ敦賀川向・今浜の鰈手繰網漁が進出して起った漁場出入の訴状があり、当家と早瀬の上野山九十九家にこの訴訟絵図とみられる漁場絵図が残っており、これらから当時の沖漁場の漁法・魚種などが具体的にわかる貴重なものである。漁場境に関連して旧くるみの浦山をめぐる早瀬浦との山論関係文書が多数ある。なお当家所蔵の漁場絵図は『福井県史』資料編16上絵図・地図に収載されている。
普請関係では、1659年(万治2)の日向湖と外海を結び漁船を通すために掘られた水路に関連する文書がある(64号)。当家文書の中には、この水路が掘られるまでは日向湖から久々子湖畔の苧村(気山村の内)へ流れる小川があったことが記されている。さらに浦見川普請に要した人足数や費用を書き上げたもの(65号)、水月湖の排水をよくするため日向湖との間に掘られた嵯峨隧道に関するものがある(70号)。
否撮カードは12点で、1795年(寛政7)「道中記」、1863年(文久3)「大福帳」、大正期の宇波西神事経費帳等7冊が含まれる。
中世では、日向浦は耳西郷に属し(資料編掲載2号)、耳西郷は鎌倉後期の弘安年間(1278-88)に、後深草天皇中宮東二条院によって奈良の春日社に寄進され、郷内の日向浦と早瀬浦は興福寺大乗院門跡管轄のもとで、興福寺伝法院に恩地として与えられていた(『三箇院家抄』)。南北朝期の1361年(康安1)11月に将軍足利義詮は耳西郷半分地頭職を京都の臨川寺に寄進したので、日向浦も臨川寺・天竜寺の支配がおよぶようになった(8・9・11・14号)。
多数の売券からは、山の本役(本年貢)が塩であることから製塩が行われていたことが知られ(13・16号)、また「渡辺道陳状」(32号)は戦国期のものと推定される文書で、年貢収納のため初めて現地に入部した大通庵の非法を訴えたものがあり注目される。
漁業に関しては網場争論に関するものが多い。係争場となった堺土・赤石・くるみ浦はいずれも常神半島東側の網場で、それらの場所については、上野山九十九家文書3号の絵図を参照されたい。堺土の網場争論として、1594年(文禄3)の「日向浦百姓中申状」(45号)は浅野氏支配末期の訴訟の状況を示して興味深い。
また日向浦が早瀬浦と争ったくるみ浦は中世末には廃絶してしまう浦であるが、「木村由信書状」(51号)にみえる魚見大夫はこのくるみ浦の住人であったと1673年(寛文13)の 「口上之覚(早瀬浦日向浦赤石山争論ニ付)」に記されている。
1583年(天正11)に木村隼人によって定められた海山年貢9貫600文の内訳を、94年(文禄3)に新領主木下勝俊の奉行人に注進した文書は、赤石以下の網場ごとに網代と網場代が記されている珍しい資料である(44号)。なお1496年(明応5)ごろ日向浦の三郎二郎が越前の今泉浦で、はまち網を始めたとあり、当浦の漁業技術の先進性を知ることができる(浜野源三郎家文書1号、資料編6所収)。
近世文書の調査点数は約390点にのぼり、その内容は支配・土地・貢租・漁業・山・村・普請・家関係等多岐にわたる。
漁業関係のものでは、常神半島東側の久留見浦の漁場跡をめぐる早瀬浦との争論のほか、「立廻シ七輪」とよばれる七か所の廻り持ち網場についての村内での争論などがあるが、とりわけ前者においては漁場境だけでなく網の向きや越前甲楽城浦の漁師が持ちこんだ両口の大網など、漁具・漁法そのものも争点となっている。また寛永期(1624-44年)には七人乗の大舟で能登や丹後・但馬へ出漁したことがうかがえ、大音正和家・早瀬区有文書とともに若狭漁師の他国稼ぎが広範に行われていたことがわかり興味深い。1665年(寛文5)には、早瀬・日向など三方郡の浦々の沖延縄場へ敦賀川向・今浜の鰈手繰網漁が進出して起った漁場出入の訴状があり、当家と早瀬の上野山九十九家にこの訴訟絵図とみられる漁場絵図が残っており、これらから当時の沖漁場の漁法・魚種などが具体的にわかる貴重なものである。漁場境に関連して旧くるみの浦山をめぐる早瀬浦との山論関係文書が多数ある。なお当家所蔵の漁場絵図は『福井県史』資料編16上絵図・地図に収載されている。
普請関係では、1659年(万治2)の日向湖と外海を結び漁船を通すために掘られた水路に関連する文書がある(64号)。当家文書の中には、この水路が掘られるまでは日向湖から久々子湖畔の苧村(気山村の内)へ流れる小川があったことが記されている。さらに浦見川普請に要した人足数や費用を書き上げたもの(65号)、水月湖の排水をよくするため日向湖との間に掘られた嵯峨隧道に関するものがある(70号)。
否撮カードは12点で、1795年(寛政7)「道中記」、1863年(文久3)「大福帳」、大正期の宇波西神事経費帳等7冊が含まれる。
県史収載
資料編8 P.667-716 74点、資料編16上絵図地図、通史編2 P.434・P.560・P.566・P.581・P.696・P.785・P.786、通史編3 P.60・P.78・P.317、通史編4 P.223・P.401・P.690
県史以外の収載
宇佐美雅樹「近世前期の本村と枝村」『県史資料』7、『わかさ美浜町誌 第7巻』
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
N0155~N0162
関連資料一覧
縮小画像の表示/非表示
表示
件
表示順