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福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
M0536
資料群名
中山正弥家文書
地域(近世,行政村,現在)
敦賀郡大比田浦,東浦村大比田,敦賀市大比田
資料の年代
1558年(永禄1)~1883年(明治16)
資料目録件数
1521
組織歴および履歴
大比田村の立地・所領関係は古川巌家(M0663)参照。
1600年(慶長5)「大比田村高書上」によれば、大比田浦は慶長検地によって村高が317石余になったが、それ以前の「先高」は281石余であった。この先高のうち62石余の土地を隣村の横浜・本比田・杉津浦へ渡し、検地後に横浜・杉津浦から54石余の土地を繰り入れており、つまり村域を変更したことがわかる。もっとも、その土地の耕作人は変らなかったらしく、このため隣村へ出入作するかたちになった。そこで、1620年(元和6)に出入作の解消策がとられて大比田の村高は457石余に変更された(『敦賀市史』通史編上巻)。
中山氏は、由緒書によれば中世の比田浦刀禰であった今井氏のところへ、中山次左衛門直治が入婿したときから始まったという。中山直治は越中朝日城主で、佐々成政に属し、成政没落後に浪人して越前へ移住したというが、越中で成政に属した中山氏のことは確証をえられない。中山氏は近世はじめには「郡中惣庄屋」と大比田浦の庄屋を兼帯し、寛永末年に惣庄屋を免じられた。1682年(天和2)に鞠山藩が成立すると代官に任ぜられ、1759年(宝暦9)に鞠山役所による直支配となってからは大庄屋を務めた。
1600年(慶長5)「大比田村高書上」によれば、大比田浦は慶長検地によって村高が317石余になったが、それ以前の「先高」は281石余であった。この先高のうち62石余の土地を隣村の横浜・本比田・杉津浦へ渡し、検地後に横浜・杉津浦から54石余の土地を繰り入れており、つまり村域を変更したことがわかる。もっとも、その土地の耕作人は変らなかったらしく、このため隣村へ出入作するかたちになった。そこで、1620年(元和6)に出入作の解消策がとられて大比田の村高は457石余に変更された(『敦賀市史』通史編上巻)。
中山氏は、由緒書によれば中世の比田浦刀禰であった今井氏のところへ、中山次左衛門直治が入婿したときから始まったという。中山直治は越中朝日城主で、佐々成政に属し、成政没落後に浪人して越前へ移住したというが、越中で成政に属した中山氏のことは確証をえられない。中山氏は近世はじめには「郡中惣庄屋」と大比田浦の庄屋を兼帯し、寛永末年に惣庄屋を免じられた。1682年(天和2)に鞠山藩が成立すると代官に任ぜられ、1759年(宝暦9)に鞠山役所による直支配となってからは大庄屋を務めた。
資料群の概要
撮影資料は約1,500点。うち慶長期までの資料30点、明治期のもの23点。残りのほとんどが近世文書であり、初期から幕末期までよく残っていることに特色がある。
中世文書のうち中山氏が今井氏を継ぐ以前の文書は失われたものが多く(敦賀市史資料編に『敦賀郡古文書』収載資料として数点掲載してある)、山の入会などで大比田浦と深い関係にあった菅谷村に対して陣夫・諸公事を免除した1580年(天正8)「武藤康秀判物」以外、現存するものはほとんどが越中時代の中山氏のもので借米の証文類である。
近世文書はとくに前期のものが揃っていて、刀根春次郎家文書(M0503)とともに、この地域の近世社会が成立する過程を窺うことができる。内容は村(浦)方関係全般におよぶが、特に注目されるのは塩年貢と塩木山に関する資料である。大比田浦や近くの横浜・阿曾・杉津の各浦では背後の山から薪を伐り出して塩を焼き、多くの塩年貢を負担していた。ところが、福井藩領となって間もなく1605年(慶長10)に小物成等の増徴策がとられ、加えて1624年(寛永1)敦賀郡は小浜藩となったが、利用する塩木山の多くは福井藩領のままであった。このため当浦など四か浦は南条郡二ツ屋・大桐・山中の三か村の山を永請山とし、毎年福井藩から山札をえて山へ入り山手塩を納入したが、次第に東浦の浦々は経済的に困窮し、寛永期の福井藩大谷浦との山論を初めとして山の利用をめぐる論争が絶えなかった。特に塩木山を中心とする山論は頻発し、1674年(延宝2)には福井藩が木の芽峠付近を雪崩予防として留山にしたため、江戸出訴にまでおよんでいる。
このほか、法令、巡見使、村況、五人組、宗門改、鉄砲改、貢租、村算用、諸勘定、交通・運輸、横浜浦銅山、災害・救恤、琵琶湖と敦賀湾を結ぶ舟川の開鑿等内容は多岐にわたる。なかでも小浜藩初期の五人組と宗門改に関する資料は、当時老中として幕政の中枢に参画していた酒井忠勝が領内にもキリシタン禁制の趣旨を徹底させようとしていたことが窺え、全国的にも注目される資料である。さらに1642年(寛永19)から1698年(元禄11)までの人身売買関係11点を含む多数の売券類や280点にのぼる書状等があり、鞠山藩の農村支配の様子が窺えるなど、いずれも内容が豊富である。
残念なことは資料編編さんの便宜上、複製本に編綴する際、袋入り資料など一括して撮影されたものを、書状・売券など、形態ごとに整理したため、大量の資料が年代不明となっているである。撮影順に編綴し直すことで、年代が確定できる資料が多くあると思われる。
近代文書は売券のほか、小学校の学務委員関係資料が若干ある。
否撮カードはない。
中世文書のうち中山氏が今井氏を継ぐ以前の文書は失われたものが多く(敦賀市史資料編に『敦賀郡古文書』収載資料として数点掲載してある)、山の入会などで大比田浦と深い関係にあった菅谷村に対して陣夫・諸公事を免除した1580年(天正8)「武藤康秀判物」以外、現存するものはほとんどが越中時代の中山氏のもので借米の証文類である。
近世文書はとくに前期のものが揃っていて、刀根春次郎家文書(M0503)とともに、この地域の近世社会が成立する過程を窺うことができる。内容は村(浦)方関係全般におよぶが、特に注目されるのは塩年貢と塩木山に関する資料である。大比田浦や近くの横浜・阿曾・杉津の各浦では背後の山から薪を伐り出して塩を焼き、多くの塩年貢を負担していた。ところが、福井藩領となって間もなく1605年(慶長10)に小物成等の増徴策がとられ、加えて1624年(寛永1)敦賀郡は小浜藩となったが、利用する塩木山の多くは福井藩領のままであった。このため当浦など四か浦は南条郡二ツ屋・大桐・山中の三か村の山を永請山とし、毎年福井藩から山札をえて山へ入り山手塩を納入したが、次第に東浦の浦々は経済的に困窮し、寛永期の福井藩大谷浦との山論を初めとして山の利用をめぐる論争が絶えなかった。特に塩木山を中心とする山論は頻発し、1674年(延宝2)には福井藩が木の芽峠付近を雪崩予防として留山にしたため、江戸出訴にまでおよんでいる。
このほか、法令、巡見使、村況、五人組、宗門改、鉄砲改、貢租、村算用、諸勘定、交通・運輸、横浜浦銅山、災害・救恤、琵琶湖と敦賀湾を結ぶ舟川の開鑿等内容は多岐にわたる。なかでも小浜藩初期の五人組と宗門改に関する資料は、当時老中として幕政の中枢に参画していた酒井忠勝が領内にもキリシタン禁制の趣旨を徹底させようとしていたことが窺え、全国的にも注目される資料である。さらに1642年(寛永19)から1698年(元禄11)までの人身売買関係11点を含む多数の売券類や280点にのぼる書状等があり、鞠山藩の農村支配の様子が窺えるなど、いずれも内容が豊富である。
残念なことは資料編編さんの便宜上、複製本に編綴する際、袋入り資料など一括して撮影されたものを、書状・売券など、形態ごとに整理したため、大量の資料が年代不明となっているである。撮影順に編綴し直すことで、年代が確定できる資料が多くあると思われる。
近代文書は売券のほか、小学校の学務委員関係資料が若干ある。
否撮カードはない。
県史収載
資料編8 P.357-388 48点、通史編3 P.135・P144・P242-245・P257・P261・P265・P278・P279・P294・P389・P472・P474・P475・P477・P645、通史編4 P.382・P402・P521・P565・P615
県史以外の収載
『敦賀市史』、『敦賀郡誌』、野尻泰弘「近世初期における境目争論と「天平元年」の古文書」(『駿台史學』158 2016年)、岡崎佑也「嘉永小田原地震における小田原町の震災対応」(『歴史地震』35 2020年)、野尻泰弘「近世初期における日本海沿岸地域の社会構造と生業」(『明治大学人文科学研究所紀要』88 2021年)
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
M0680~M0720
関連資料一覧
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