西福寺文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
M0507
資料群名
西福寺文書
地域(近世,行政村,現在)
敦賀郡原村,松原村原,敦賀市原
資料の年代
1317年(文保1)~1972年(昭和47)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
原村は敦賀湾南部沿岸に位置する。はじめ福井藩領、1624年(寛永1)小浜藩領、82年(天和2)鞠山藩領、1870年(明治3)再び小浜藩領で、村高は537石余で、このうち33石余が西福寺領であった。
当寺は浄土宗鎮西派に属し、「西福寺誌稿」などによれば、当寺の開基は1368年(応安1)、開山は良如。良如は越前で真宗をひろめた大町専修寺如導の子であったが、京都の浄花院敬法に学んで浄土宗の僧になったと伝える。その関係で当寺は中世には浄花院(現在の清浄花院)を本山としていたが、中世末から近世のはじめにかけて黒谷金戒光明寺を本山とするようになった。
当寺は1390年(明徳1)には後円融天皇の勅願所、1423年(応永30)には足利義持の祈願所、30年(永享2)には足利義教の祈願所、45年(文安2)には後花園天皇の勅願所となった。
資料群の概要
当寺の文書は433点、うち280点余が中世文書、140点余が近世文書、10点が近代文書である。
中世文書は南北朝期から連続しており、敦賀郡の政治動向をうかがうことができる。大半は売券・寄進状・安堵状であり、前欠・後欠のものも多いが、名制度や加持子得分の移動を知ることができる点で貴重である。
文書番号00129-133は浄鎮の死の直前に書かれており、中でも遺言状は当時の弔い方が詳細に記されていて興味深い。また文書番号256-259は織田信長のもとで行われた浄土宗と法華宗の宗論(安土宗論)に関するもので、勝利を収めた浄土宗に対する信長の判物や、法華宗僧侶の袈裟片をはぎ取って貼り付けた書状も見られる。
近世文書は(1)原村関係、(2)宗門関係、(3)日記・記録、(4)借用証文 などがある。
(1)では1823年(文政6)の年貢免状や40年(天保11)の「原村之掟」がある。後者は村と当寺の紛争の後に取り決められたものである。その内容から見て村で検見があったとき、寺に無断で年貢を納入したり寺の所有する山の木を伐採するようなことがあり、立木九兵衛に仲裁を依頼して作られたものであった。
(2)は本山からの定法や遠忌に関するもの、種々の寄進願、1865年(元治2)の檀那帳など。
(3)には役僧による日鑑があり、安政から慶応年間のものが多数残されているほか、寺の什物、室町時代からの文書の写である「清観院改糺録」があり、これには現存しない文書も記録されている。
近代文書は1871年(明治4)の年貢免状や寺院明細帳、1917年(大正6)に作られ72年(昭和47)まで加筆された「西福寺誌稿」がある。
文書番号は複製本の編冊順に付した。
利用条件
 
県史収載
資料編8 P.134-235 286点、通史編1 P.26・581、通史編2 P.99 ・P.259・P.458・P.466・P.470-472・P.524-526・P.549・P.550・P.563・P.576・P.581・P.649・P.651-653・P.656・P.667・P.669-671・P.820・P.824・P.848・P.850・P.927-930・P.934・P.939・P.953・P.956・P.959・P.960・P.1003・P.1019・P.1062、通史編3 P.288・P.631・659、通史編4 P.377・P.615・P.616
県史以外の収載
『敦賀市史』 『敦賀郡誌』 『越前若狭古文書選』、 阿部猛「中世末期における在地構造の一考察-越前敦賀郡の場合-」『日本歴史』110、須磨千頴「越前国野坂荘内西福寺領の考察」『中世の窓』8・9、河村昭一「戦国大名朝倉氏の領国支配と名体制」『史学研究』123、『中部大名の研究』に再録、 寺下一義「「西福寺文書」明徳元年七月二十四日付院宣について」『気比史学』4、寺下一義「七郎小法師と朝倉義景」『地方史研究』217
複製本番号
M0609~M0628
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。