打它彦次郎家文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
M0011
資料群名
打它彦次郎家文書
地域(近世,行政村,現在)
敦賀郡櫛川村,松原村櫛川,敦賀市平和町
資料の年代
1648年(慶安1)~1648年(慶安1)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
櫛川村は気比松原に連なる浜堤の西南端に位置し、東は今浜村・鋳物師村、南は木崎村、北は敦賀湾に面している。はじめ福井藩領、1624年(寛永1)以降小浜藩領で、正保郷帳による石高は約618石余。
打它(うた)氏は高嶋屋・道川・田中の各氏とともに代表的な敦賀の初期豪商であり、江戸時代を通じて敦賀で第一の家格を保持した(当家と同家格となることを「打它格」といい、町年寄より上とされる)。初代宗貞ははじめ飛騨の金森氏に仕え茂住銀山を支配する金山奉行を務めたとされ、金森長近死去の1608年(慶長13)ころ敦賀に来住したようである。飛騨では茂住を称していたが、敦賀では打它宗貞又は糸屋彦次郎と名乗った。
また同氏は商業活動のみならず領主京極氏や酒井氏に仕えて300石の知行を得、敦賀の代官を務めた。役職を退いたのちも扶持米を与えられている。1661年(寛文1)代官であった伊兵衛(大津代官小野惣左衛門の子、公軌の養子)は勝山・福井・村上・長岡・山形・庄内の各藩の蔵宿を務めている。
さらに学者としては宗貞の子、2代公軌がでて、京都で大名貸しを行うかたわら歌人木下長嘯子(勝俊)を後援、歌集『挙白集』の刊行を助け、自らは『古今類句』の編さんにも携わった。
資料群の概要
1945年(昭和20)の空襲でほとんどの文書が焼失し、宗貞の妻清月庵の屋敷分与状のみが残された。なお、「寛文雑記」「指掌録」等の写本(『敦賀市史』掲載)は東北学院大学や京都大学に伝来し、また、「酒井家編年史料稿本」(小浜市立図書館蔵)にも当家文書の写が収録されている。
利用条件
 
県史収載
資料編8 P.56 1点、通史編3 P.102-104・P.543・P.545・P.560・P.565・P.659・P.724・P.736・P.755、通史編5 P.669、『図説福井県史』
県史以外の収載
『敦賀郡誌』
複製本番号
M0755
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。