本向寺文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
K0031
資料群名
本向寺文書
地域(近世,行政村,現在)
足羽郡市波村,下宇坂村市波,福井市市波町(美山町)
資料の年代
1647年(正保4)~1870年(明治3)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
市波村は足羽川中流左岸から一乗城山の北東麓に位置する。江戸時代を通じて福井藩領で、「正保郷帳」によれば、村高は744石余、うち田方422石余、畑方322石余。
本向寺は浄土真宗本願寺派で、源頼朝の家臣大須賀四郎が親鸞の弟子となり、本光坊明空と称して現在の地に創建したものとされる。5代了顕は蓮如に従い、1474年(文明6)吉崎御坊炎上の際、親鸞真筆の経巻を守るために火中に飛び込み、割腹して経巻を腹中に入れ焚死したといわれる。
寺地は越後・加賀などを転々とした後、1582年(天正10)に再び現在の地に定着したとされる。
12代祐忍は大野藩主松平直良、直明と親交があり、1647年(正保4)に藩の蔵屋敷を譲られて支坊とした。福井藩主松平吉品の信頼も厚く、給帳には「銀拾枚 八人扶持 落合祐思(忍)」とある。この吉品の後援もあって当寺は1708年(宝永5)に永代院家の寺格を得ている。
資料群の概要
当寺の文書は1点を除いてすべて近世文書である。その大半は書状であり、前述の祐忍に関係するものが多い。相手は(1)大野松平家・福井藩士、(2)本願寺坊官、(3)伊藤坦庵・野路汝謙、が中心である。
(1)では前述した福井長者町の蔵屋敷地を寺地に寄進する旨の大野藩年寄副状があり、大野藩主との親交がうかがえる。福井藩士の書状は進物等の礼状が多い。。
(2)は髪剃、住持相続などの許可状やそれに関わる上納金の受領書や礼状、御機嫌伺の書状などが中心である。
(3)の伊藤坦庵(宗恕)は寛文年間(1661-73)に松平昌親によって招かれた朱子学者で、福井藩の禄をうけ、藩の儒官となった。松平綱昌の給帳には「七百石 伊藤宗恕」とある。野路汝謙は坦庵の薫陶を受け、これも儒官となった。この二人の書状からは、前述した了顕の事績が本願寺でも本覚寺(永平寺町東古市)と混同されていたことや、彼らがその誤解を解き、本向寺の寺格昇進のために尽力していたことが知られる。
この他には袈裟等の代金の請求書・受領書、福井藩主の川狩の記録(当寺が御休所になっていた)、了顕や祐忍の遠忌に関するものがある。
近代の資料1点は、欽仰院(19代本照)に対する実家広幡家からの永代扶持米下付に関するものである。
約470点の調査資料のうち、否撮資料は約80点で、本山からの金子受取状、本山坊官からの書状、過去帳など。
利用条件
 
県史収載
資料編7 P.918-922 9点、通史編2 P.746 ・P.759 ・P.763・P.770、通史編3 P.177・P.671・P.672・P.673・P.690・P.691
県史以外の収載
『美山町史』
複製本番号
K0169~K0174
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。