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福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
K0014
資料群名
平井源左衛門家文書
地域(近世,行政村,現在)
大野郡赤谷村,下味見村赤谷,福井市赤谷町(美山町)
資料の年代
1583年(天正11)~1897年(明治30)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
赤谷村は足羽川の支流赤谷川上流の山村で折立村の枝村であった。1598年(慶長3)の太閤検地でも高付けがなされず、江戸時代を通じて無高であった。はじめ福井藩領、1624年(寛永1)以降大野藩領。
「赤谷由緒記」によれば平維盛の後胤が住みついてできた村と伝え、武士の後胤であるとの理由から越前の諸将の出陣には村から3人が軍陣に加わっていた。また、平時にも同じく3人が奉公人として仕え、その見返りとして公事・夫役免除の特権が与えられていた。
しかし、1644年(寛永21)松平直基の代になると奉公人を差し出すかわりに「成替銀」を600匁毎年上納することとなった。なお出陣時のために「赤谷野」と呼ばれる屋敷が大野町南の新田野に設けられていた。今も小字名にその名が残っている。
平井家は代々源左衛門を名乗り、赤谷村の庄屋を務めた。
「赤谷由緒記」によれば平維盛の後胤が住みついてできた村と伝え、武士の後胤であるとの理由から越前の諸将の出陣には村から3人が軍陣に加わっていた。また、平時にも同じく3人が奉公人として仕え、その見返りとして公事・夫役免除の特権が与えられていた。
しかし、1644年(寛永21)松平直基の代になると奉公人を差し出すかわりに「成替銀」を600匁毎年上納することとなった。なお出陣時のために「赤谷野」と呼ばれる屋敷が大野町南の新田野に設けられていた。今も小字名にその名が残っている。
平井家は代々源左衛門を名乗り、赤谷村の庄屋を務めた。
資料群の概要
文書群は(1)村方文書、(2)平井家の私家文書から構成され、(1)では県史掲載文書でもある村の由緒、特権関係の文書が特徴的である。1583年(天正11)には金森長近が村高82石を掌握しており、百石につき金1両の基準で課す反銭として当村から銀3匁8分9厘を収取しようとしたが先例がないので半分を免除したことがわかる。これ以降の村の諸役免除等については「赤谷村由緒記」に写がまとめられている。
ほかに折立村所持の山畑をめぐる争論、1803年(享和3)赤谷野への出作願、五人組改帳(1849年、64年)、水戸浪士通行による与内金差出覚、明治期にはいってからの独立村願などが含まれる。
(2)私家文書は、天保期以降明治初年までの借用証文が80点あまり撮影されている。当村の借用証文には「本役」が記載されており、村の田畑・屋敷・山すべてに割りかけられた「成替銀」と思われる。
否撮資料は約140点ほどで、明治期の赤谷村戸籍、田地等級届、反別地番記帳などと、借用証文130点余である。
ほかに折立村所持の山畑をめぐる争論、1803年(享和3)赤谷野への出作願、五人組改帳(1849年、64年)、水戸浪士通行による与内金差出覚、明治期にはいってからの独立村願などが含まれる。
(2)私家文書は、天保期以降明治初年までの借用証文が80点あまり撮影されている。当村の借用証文には「本役」が記載されており、村の田畑・屋敷・山すべてに割りかけられた「成替銀」と思われる。
否撮資料は約140点ほどで、明治期の赤谷村戸籍、田地等級届、反別地番記帳などと、借用証文130点余である。
県史収載
資料編7 P.905-917 8点、通史編3 P.654
県史以外の収載
長谷川裕子「中近世移行期における土豪の機能とその変化-軍事・外交機能の消失と村役負担の観点から-」(『人民の歴史学』209 2016年)
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
K0071~K0074
関連資料一覧
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