稱名寺文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
K0013
資料群名
稱名寺文書
地域(近世,行政村,現在)
大野郡折立村,下味見村折立,福井市折立町(美山町)
資料の年代
1560年(永禄3)~1888年(明治21)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
折立山称名寺は、折立村の北部、足羽川西岸の道に面する。真宗高田派の寺院。寺伝によれば、鎌倉期末の佐々木三郎盛綱が開基という。1440年(永享12)の「小山荘田数諸済等帳案」には紙山保折立郷の中に「太子堂」が見え(『福井県史』資料編2中世 保井家文書5号)、これが当寺と関係があるとされる。伊勢の高田専修寺10世真恵の書状では、「折立北坊称名寺御房」と記され、同地にあった南坊はのち黒目(現三国町)称名寺となった。
資料群の概要
資料編には、中世文書として13点が掲載され、1575(天正3)に壊滅した越前一向一揆後の真宗門徒に対する領主の対応を示すものが注目される。1560年(永禄3)「朝倉氏一乗谷奉行人連署状」からは、高田派は朝倉氏に頼って門徒を掌握しようとしていたことがうかがえる。75年(天正3)「佐良谷村惣代左衛門等連署請文」からは、一向一揆後には、大野郡内を支配した金森長近によって、芦見谷の皿谷村など7か村が高田派門徒となったことが知られる。
ほかに信長から目付として遣わされた北庄三人衆の一人である三沢秀次の1573年(天正1)の書状、「本知七石」の支配を認めた信長朱印状がある。なお、文書にみえる橋立山真宗寺は、同じく佐々木盛綱を開基と伝える寺院で、15世紀末には本願寺直末となったが、永禄年間(1558-70)にはふたたび当寺との関係を回復しており、一向一揆後も当寺末高田派寺院として存続していた。
近世文書には、着衣・着座の免許状、寺社奉行連署状、折立村の年貢免状・皆済目録の一部がある。
否撮カードはなし。
利用条件
 
県史収載
資料編7 P.898-901 13点、通史編2 P.768・P.774、通史編3 P.11・P.12・P.21・P.38・P.54・P.627・P.629
県史以外の収載
『大野郡誌』『越前若狭古文書選』
複製本番号
K0058
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。