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福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
J0099
資料群名
吾田与三兵衛家文書
地域(近世,行政村,現在)
大野郡保田村,鹿谷村保田,勝山市鹿谷町保田
資料の年代
1638年(寛永15)~1900年(明治33)
資料目録件数
245
組織歴および履歴
保田村は九頭竜川と鹿谷川との合流点左岸に位置し、村高は正保郷帳で863石3斗8升。福井藩領から1624年(寛永1)大野藩領となり、以後幕府領福井藩預所、幕府直轄領、郡上藩領を経て1720年(享保5)鯖江藩領となるが、1862年(文久2)幕府直轄領となった。ただし、郡上藩領となったことについては、今のところ越前での所領は確定できず、預所が存在したかどうかも確認できない。
吾田家は代々与三兵衛を名乗り、庄屋などの村役人を務める一方、近世後期には油絞りを始め油屋を屋号とした。大火・九頭竜川の氾濫などにより吾田家の浮沈は激しかったが、油絞りを始めてからは家運回復に向かった。
吾田家は代々与三兵衛を名乗り、庄屋などの村役人を務める一方、近世後期には油絞りを始め油屋を屋号とした。大火・九頭竜川の氾濫などにより吾田家の浮沈は激しかったが、油絞りを始めてからは家運回復に向かった。
資料群の概要
近代文書1点を除く244点が近世文書であり、(1)貢租、(2)支配・村方関係、(3)隣村との地境・用水論、(4)九頭竜川の渡船に関するもの、(5)売券類、(6)その他、に大別される。
(1)には1682年(天和2)からの年貢免状・皆済目録などがある。
(2)には1828年(文政11)の野津又騒動についての一札を始め、幕府からの触、詫状、村送りなどがある。
(3)には妙金島村との争論が見られる。1638年(寛永15)、大野藩藩主松平直基の家臣が保田村河原の新田開発を隣村の妙金島村に命じた。しかし、1700年(元禄13)に九頭竜川が氾濫し、その後も流路が元に戻らなかったため、その帰属をめぐって激しい争論が起こった。この争論は隣村の仲介では和解できず、藩庁より検使がきて和解となった。
(4)は比嶋の渡船に関するものである。九頭竜川左岸の比嶋村と対岸の滝波村を結ぶ渡しは鹿谷地区10か村と比嶋村とで船組が構成されていたが、1831年(天保2)、保田村他4か村が新たに対岸松ケ崎村との間に独自の渡船の運行を願い出た。この渡は「赤岩の渡し」と呼ばれ1914年(大正3)まで続いた。
(6)には鮎献上・夏蚕の売買などがある。
否撮カードは借用書・売券が90点記録されている。
(1)には1682年(天和2)からの年貢免状・皆済目録などがある。
(2)には1828年(文政11)の野津又騒動についての一札を始め、幕府からの触、詫状、村送りなどがある。
(3)には妙金島村との争論が見られる。1638年(寛永15)、大野藩藩主松平直基の家臣が保田村河原の新田開発を隣村の妙金島村に命じた。しかし、1700年(元禄13)に九頭竜川が氾濫し、その後も流路が元に戻らなかったため、その帰属をめぐって激しい争論が起こった。この争論は隣村の仲介では和解できず、藩庁より検使がきて和解となった。
(4)は比嶋の渡船に関するものである。九頭竜川左岸の比嶋村と対岸の滝波村を結ぶ渡しは鹿谷地区10か村と比嶋村とで船組が構成されていたが、1831年(天保2)、保田村他4か村が新たに対岸松ケ崎村との間に独自の渡船の運行を願い出た。この渡は「赤岩の渡し」と呼ばれ1914年(大正3)まで続いた。
(6)には鮎献上・夏蚕の売買などがある。
否撮カードは借用書・売券が90点記録されている。
県史収載
『福井県史 資料編7 中・近世五』P.507-516 7点、『福井県史 通史編3 近世一』P.175・P614、『福井県史 通史編4 近世二』P.763
県史以外の収載
『勝山市史』
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
J0833~J0839
関連資料一覧
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