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福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
J0092
資料群名
白山神社文書
地域(近世,行政村,現在)
大野郡平泉寺村,平泉寺村平泉寺,勝山市平泉寺町平泉寺
資料の年代
1524年(大永4)~1686年(貞享3)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
1870年(明治3)平泉寺の別当玄成院義章は還俗して神職となり、境内の仏教的荘厳をすべて廃し、それまでの白山平泉寺は白山神社となった。祭神は伊弉冉尊。
白山平泉寺の創始伝承は、717年(養老1)泰澄が白山権現の遊幸の地という「林泉」に白山中居をおいたことにはじまるという(「泰澄和尚伝」資料編1)。この「林泉」が現白山神社境内にある御手洗池といい、「平泉」の称の起こりともいう。また832年(天長9)越前・加賀・美濃から白山登拝口である三馬場が開かれ、参詣人に別当寺へ奉幣させたという(「白山之記」資料編1)。平泉寺という呼称が文献にみえるのは12世紀からである。「白山平泉寺」あるいは「中宮平泉寺」とは白山社を中心とする多くの社堂僧坊を含む白山信仰霊場としての一山の総称といえるが平安後期には延暦寺の末寺となった。これ以後、中世を通じて平泉寺は一大宗教勢力となり、僧兵を擁する武力集団を形成して、それぞれの時期に越前の政治的動静に大きな影響を及ぼした。1183年(寿永2)木曾義仲に呼応し、その戦勝祈願で藤島七郷が寄進された。これが荘園化したと考えられる藤島荘が平家没官領として源頼朝から寄進された。しかし、同荘年貢千石が延暦寺の勧学講費用に当てられたから、平泉寺はこれを回復しようとして山門と対立した。
南北朝の動乱では、はじめ後醍醐天皇方となり、越前に下った新田義貞にも呼応したが、藤島荘の寄進を条件に足利方の斯波高経に寝返った。以後繁栄し、戦国期には朝倉氏の保護をうけて全盛期を迎えた。1573(天正1)朝倉義景が同景鏡の反逆で自刃したがその景鏡が平泉寺に身を寄せたことから、一向一揆に攻められ、翌74年4月社堂及び六千坊といわれた一山は焼き討ちされ灰儘に帰した。その後間もなく賢聖院顕海によって玄成院などの堂塔は復興した。
白山平泉寺の創始伝承は、717年(養老1)泰澄が白山権現の遊幸の地という「林泉」に白山中居をおいたことにはじまるという(「泰澄和尚伝」資料編1)。この「林泉」が現白山神社境内にある御手洗池といい、「平泉」の称の起こりともいう。また832年(天長9)越前・加賀・美濃から白山登拝口である三馬場が開かれ、参詣人に別当寺へ奉幣させたという(「白山之記」資料編1)。平泉寺という呼称が文献にみえるのは12世紀からである。「白山平泉寺」あるいは「中宮平泉寺」とは白山社を中心とする多くの社堂僧坊を含む白山信仰霊場としての一山の総称といえるが平安後期には延暦寺の末寺となった。これ以後、中世を通じて平泉寺は一大宗教勢力となり、僧兵を擁する武力集団を形成して、それぞれの時期に越前の政治的動静に大きな影響を及ぼした。1183年(寿永2)木曾義仲に呼応し、その戦勝祈願で藤島七郷が寄進された。これが荘園化したと考えられる藤島荘が平家没官領として源頼朝から寄進された。しかし、同荘年貢千石が延暦寺の勧学講費用に当てられたから、平泉寺はこれを回復しようとして山門と対立した。
南北朝の動乱では、はじめ後醍醐天皇方となり、越前に下った新田義貞にも呼応したが、藤島荘の寄進を条件に足利方の斯波高経に寝返った。以後繁栄し、戦国期には朝倉氏の保護をうけて全盛期を迎えた。1573(天正1)朝倉義景が同景鏡の反逆で自刃したがその景鏡が平泉寺に身を寄せたことから、一向一揆に攻められ、翌74年4月社堂及び六千坊といわれた一山は焼き討ちされ灰儘に帰した。その後間もなく賢聖院顕海によって玄成院などの堂塔は復興した。
資料群の概要
撮影資料は、近世の書状20点、文書箱表書1点。
資料編に収載された中世文書1-15号は東大史料編纂所影写本によったが、その奥書には「越前国大野郡折立村白山神社所蔵、明治三十年十月採訪、三十五年六月影写了」とある。
資料編掲載の1号は児之流鏑馬真事とその費用、及び朝倉氏がこれを保証したことを示し、「白山権現講式」(大原勝林院蔵)とともに平泉寺の祭礼の一端を示すものである。またこの文書では9月21日に藤島荘より200人が平泉寺へ登山すること、当時の飯米1石が1貫文であったことなどがわかり、「府中奉行」の呼称がみられる。
平泉寺の寺領の詳細は不明であるが、2号によれば平泉寺の賢聖院領と同院充海加増分だけで、現在の大野市・勝山市の各所に480石余も散在したことが知られる。これには沽却分が多く見られ、田地・住坊地などの売買が盛んに行われたことも注目される。また坊院地などの住坊地の継承・沽却やその相論には朝倉氏から裁定・安堵をうけていることも注意される。
近世では、資料編には当神社文書から文書4点(18・19・22・23号)を収載し、その他は東大史料編纂所影写本「白山神社文書」(奥書「平泉寺白山神社所蔵」)、国文学研究資料館史料館影写本「平泉寺文書」によった。
平泉寺は1601年(慶長6)結城秀康から平泉寺村内で200石、30年勝山藩主松平直基から平泉寺村内で30石の寄進を受けた。このうち平泉寺村内の200石は24年(寛永1)幕府の朱印地となった(『平泉寺文書』38号文書)。また、天海は31年に直弟実雄を賢聖院に転住させ、翌年平泉寺を東叡山寛永寺の直末としたと伝えられるが(霊応山平泉寺再興縁起・平泉寺歴代年賦、『平泉寺史要』所収)、21号は実雄が転住に際して持参したと伝えられる賢聖院住持日海宛ての天海の書状と推定される。
否撮カードはなし。
資料編に収載された中世文書1-15号は東大史料編纂所影写本によったが、その奥書には「越前国大野郡折立村白山神社所蔵、明治三十年十月採訪、三十五年六月影写了」とある。
資料編掲載の1号は児之流鏑馬真事とその費用、及び朝倉氏がこれを保証したことを示し、「白山権現講式」(大原勝林院蔵)とともに平泉寺の祭礼の一端を示すものである。またこの文書では9月21日に藤島荘より200人が平泉寺へ登山すること、当時の飯米1石が1貫文であったことなどがわかり、「府中奉行」の呼称がみられる。
平泉寺の寺領の詳細は不明であるが、2号によれば平泉寺の賢聖院領と同院充海加増分だけで、現在の大野市・勝山市の各所に480石余も散在したことが知られる。これには沽却分が多く見られ、田地・住坊地などの売買が盛んに行われたことも注目される。また坊院地などの住坊地の継承・沽却やその相論には朝倉氏から裁定・安堵をうけていることも注意される。
近世では、資料編には当神社文書から文書4点(18・19・22・23号)を収載し、その他は東大史料編纂所影写本「白山神社文書」(奥書「平泉寺白山神社所蔵」)、国文学研究資料館史料館影写本「平泉寺文書」によった。
平泉寺は1601年(慶長6)結城秀康から平泉寺村内で200石、30年勝山藩主松平直基から平泉寺村内で30石の寄進を受けた。このうち平泉寺村内の200石は24年(寛永1)幕府の朱印地となった(『平泉寺文書』38号文書)。また、天海は31年に直弟実雄を賢聖院に転住させ、翌年平泉寺を東叡山寛永寺の直末としたと伝えられるが(霊応山平泉寺再興縁起・平泉寺歴代年賦、『平泉寺史要』所収)、21号は実雄が転住に際して持参したと伝えられる賢聖院住持日海宛ての天海の書状と推定される。
否撮カードはなし。
県史収載
資料編7 P.641-662 26点、通史編2 P.447・P.573・P.577・P.651・P.655・P.672・P.782・P.821・P.907・P.955・P.960・P.961・P.968、通史編3 P.56・P.763、以下『平泉寺文書』P.124・P.144・P.172・P.763、通史編4 P.114・P.479・P.527・P.555・P.583・P.585
県史以外の収載
『大野郡誌』、『平泉寺文書』、『平泉寺史要』、『越前若狭古文書選』、下出積與『白山信仰』(民衆宗教史叢書18)、勝山市教育委員会『白山平泉寺 南谷坊院発掘調査概報』1-3、長谷川裕子「江戸時代初期の越前に現れた「領」-結城秀康・松平忠直の領国支配機構-」(『福井大学教育地域科学部紀要』4 2014年)
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
J0786
関連資料一覧
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