平泉寺区有文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
J0089
資料群名
平泉寺区有文書
地域(近世,行政村,現在)
大野郡平泉寺村,平泉寺村平泉寺,勝山市平泉寺町平泉寺
資料の年代
1600年(慶長5)~1897年(明治30)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
平泉寺村は九頭竜川支流の女神(おながみ)川扇状地の扇頂に位置する。はじめ福井藩領で、1624年(寛永1)勝山藩領、44年(正保1)幕府領福井藩預地、86年(貞享3)幕府直轄領を経て91年(元禄4)からは再び勝山藩領となった。「元禄郷帳」による村高は2874石余(白山神社朱印地200石を含む)の大村で、枝村として岡・赤尾・安ケ市があった。なお、平泉寺区に関しては梅田次右衛門家(J-0022参照)にも関連文書が多数ある。
資料群の概要
撮影資料526点のうち、近代文書16点、残りは近世文書である。
近世文書は(1)山論、(2)用水・水論、(3)救恤、(4)宗教、(5)貢租関係、(6)巡見使関係、(7)売券類などである。
(1)は周辺村民が当村の入会山に侵入し、木材の伐採や下草の刈り取りを行ったことへの詫状、炭焼釜に対する運上・釜数等をめぐる猪野口村との争論、近隣の不動堂村や大矢谷村・片瀬村・勝山町等との山境争論があり、とりわけ大矢谷村との争論は1748年(寛延1)、1786-87年(天明6-7)の2度におよび、後者は江戸出訴に及んでいる。
(2)では1783-84年(天明3-4)、平泉寺村の取水口が洪水によって使用不能になったため場所の変更を願い出たことや、文化年間(1804-18)、溜池を作って新田開発を企てたことに反対する大渡・北市・若猪野村との争いなど、山間の少ない水をめぐる争いの熾烈さがうかがえる。
(3)は天明期以降、連続して用捨米・拝借米願が見られるがその訴えの中で、勝山藩領になってからの高免が注目される。訴状や年貢免状によれば、幕府領時代の1687年(貞享4)の年貢率は平泉寺本村2ツ7分8厘、赤尾は2ツ2分5厘、89年(元禄2)は本村2ツ4分2厘、赤尾2ツであったのに、勝山藩領となった93年(元禄6)には4ツ1分5厘、赤尾も同免となったため減免願を出したと記されている。のち97年・1754年(宝暦4)、梅田次右衛門家に残る55年の免状は本村3ツ1分、赤尾3分であり、1800年(寛政12)の「当村貧窮難渋之訳追訴願書扣」によれば、82石・64石の百姓が水呑になった例も見られ、村の困窮ぶりや逆に町方在住の梅田次右衛門が362石余の高を得て当村随一の経済力を持つに至ることも知られる。
(4)は宗旨人別帳や村送り証文など、(5)には年貢免状(4通)のほか別盛争論がある。枝村の岡・赤尾や入百姓村の横江村などは訴訟負担や山手米などをめぐって別盛を要求したが容易には認められず、1811年(文化8)、岡・赤尾が承認されずに内済となったのちも、43年(天保14)横江村から願が出されるなどいずれも争論が長期化した。
(6)は1789年(寛政1)・1838(天保9)の巡見にかかる経費・人足割などを記したものである。
近代文書は枝村岡・赤尾の分離に関するものや、村内の白山神社朱印地の所有・課税関連文書等である。
否撮カードは約470点、半数以上は近代のもので、近世文書では宗門改帳、検地帳(野帳含む)、救恤関係、備荒倉関係、近代文書では盛帳、貢租関係などが中心である。
利用条件
 
県史収載
資料編7 P.688-702 11点、通史編3 P.283、通史編4 P.115
県史以外の収載
『勝山市史』
複製本番号
J0748~J0785
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。