津田彦左衛門家文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
J0052
資料群名
津田彦左衛門家文書
地域(近世,行政村,現在)
大野郡檜曽谷村,北郷村檜曽谷,勝山市北郷町檜曽谷
資料の年代
1583年(天正11)~1875年(明治8)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
檜曽谷村は水無山の南麓、九頭竜川中流右岸に位置する。はじめ福井藩領、1624年(寛永1)勝山藩領、44年(正保1)幕府領福井藩預所、86年(貞享3)幕府直轄領となった。村高は328石余と枝村新町(あらまち)村27石余。新町村は秀吉の蔵入鉱山だった北袋銀山の採掘停止後、鉱夫らが村の西部に定住したもので、田畑はなく、屋敷地が石高となったものである。村役人が置かれ、人別帳も作成されたが、年貢収納は檜曽谷村と一緒に行われた。当村の年貢率は91年(元禄4)で9分、以降多いときでも1ツ3分を超えることはなかった。これは前述の銀山の採掘停止後も「銀汁」(鉱毒)の被害が続いたために恒常的に収穫が少なかったからである。
津田家は代々彦左衛門を称し、村役人を務めた。
資料群の概要
撮影資料は(1)幕府からの触、(2)貢租関係、(3)銀山関係、(4)争論、(5)売券・譲状などである。
(1)は18世紀中心の写しである。
(2)は年貢免状・皆済目録・年貢割付帳などで、免状や皆済目録は17世紀末から1860年代(文久年間)のものがよく残っている。
(3)には北袋銀山の鉱毒に関するものがある。「所蔵者情報」にもあるように、北袋銀山は秀吉の時代には盛んに採掘されたが、福井藩領時代には既に採掘が停止された。しかし鉱毒により村の作柄は非常に悪く、1720年(享保5)には鷹餌代等の免除願、50年(寛延3)には夫役銀免除願などが出されている。また、61年(宝暦11)には斗上免・六尺給米免許願が出されているが、これは巡見使が宛先になっていて興味深い。なお、水無山は江戸中期以降銀・銅・鉛などが試掘されたが、当村内では成功しなかった。
(4)では枝村新町村との争論が見られる。新町村は1686年(貞享3)、村改をうけ、高27石余となったが、自村には田畑がなく、本村や他村への出作・請作によって生活していた。1820年(文政3)、新町村は本村を横暴として訴え、本村の村役人を交替で出すか、東西の組分けを願う訴えを起こした。翌年内済となったが、組分けは認められず、村役人の寄り合いや評議の際、新町村より立会人を1名出席させることとなった。この後も新町村は本村からの分離・独立の動きを見せたが、江戸時代には認められなかった。
(5)はほとんどが17世紀後半以降のものだが、16世紀末のものが数点あり、1583年(天正11)の「れうきやう畠地売券」には「ひそ谷」の地名が記され、85年のものには「かち名」とあり、77年(天正5)の柴田勝家の検知以降もなお名制度が存在していたことを示す。さらには土地の代価に米や糸などが使われていたことが知られる。
否撮カードは近世後期から明治期の売券、年貢勘定帳、盛割、寺院への奉加金など約120点。
利用条件
 
県史収載
資料編7 P.611-620 16点、通史編3 P.296-298・P.309、通史編4 P.327・P.583
県史以外の収載
『勝山市史』、本川幹男「十八世紀越前における村の変質」『福井県地域史研究』5
複製本番号
J0595~J0608
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。