鳥山治郎兵衛家文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
J0018
資料群名
鳥山治郎兵衛家文書
地域(近世,行政村,現在)
大野郡下荒井村,遅羽村下荒井,勝山市遅羽町下荒井
資料の年代
1598年(慶長3)~1936年(昭和11)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
下荒井村は、九頭竜川と真名川の合流点の左岸に位置し、このため洪水の被害をたびたび受けた。中でも1825年(文政8)の大洪水では、九頭竜川が大きく村に切れ込むかたちで流路を変えたため、当村は新在家・横枕・堂本村との入会地の山裾に移った。また当村は大野と勝山との往還筋にもあたり、対岸の大渡を結ぶ渡し場でもあった。
はじめ福井藩領、1624年(寛永1)大野藩領、82年(天和1)幕府領、93年(元禄6)郡上藩領を経て97年再び幕府領となった。村高は、正保郷帳では65石余であったが、松平大野藩時代の村高は60石で、引高4石8斗6升5合が村高から除かれ、他に「出分」として72石3斗8升9合があった。その後村高は、これらの高をあわせた137石余となった。その時期は86年(貞享3)勝山に代官がおかれた折と推測される(下荒井区有文書『勝山市史』資料編3)。
ついで1708(宝永5)の幕府領検地によって村高は226石余となったが川欠によって引高が年々増加していった。なお元禄郷帳の村高は、139石7斗8升4合3勺であるが、この高は宝永5年以前の村高に新田高1石8斗9升5合3勺が加わったものである。
鳥山家は、代々治郎兵衛を称し、18世紀初頭の宝永期以降たびたび庄屋を務めた。幕末には、穴馬角野銅山等の銅山経営にもかかわり、明治初年(1872-76年)には副戸長を務めた。
資料群の概要
撮影点数は約1400点におよび、否撮カードの内容から近世文書については、ほぼ悉皆的な調査が行われたと推測される。
内容は、最も古い1598年(慶長3)の山売券をはじめ、(1)1674年(延宝2)以降幕末に至る年貢免状・皆済目録・小割帳などの貢租関係、(2)用水・堤普請に関するもの、(3)盛銀や庄屋役などについての村定、(4)新在家・横枕・堂本村との入会山争論、当家の持山をめぐる争論、洪水とその救恤に関するもの、(5)当家の小作取立帳など小作経営、鉱山関係などきわめて豊富である。
(1)年貢免状・皆済目録は、元禄期から明和・安永期ころまでがよく揃っており、(2)の九頭竜川・真名川の川除普請仕様帳・出来形帳は18世紀以降幕末まで約100冊が残されている。
(3)入会山の利用や盗難についての村定(1771年)、庄屋役を年番とする村定(1789年)、年貢割付に関する村定(1852年)などがある。
(4)洪水の被害に関しては、1726年(享保11)2月には、対岸の女神川上流の大規模な土砂崩れによって九頭竜川がせき止められ、対岸の当村へ洪水が押し寄せて、大きな被害をうけた。大野勝山間の往還道も崩れたため、3村との入会山に新道をつける願書がだされている。洪水後の扶食拝借願、小物成免除願、荒所の新田開発にかかわる文書が多い。
このほか、1825年(文政8)の大洪水後の入会山のうち堂ケ脇・牛谷への居村移転に関する文書、29年の対岸、大渡村の乗水囲普請をめぐる争論文書、当家が所持してきた鴻巣山に関する争論文書などが含まれる。
(5)1751年(寛延4)田畑の質入値段と小作入上値段を書き上げた冊子が注目される。小作関係の帳簿は、文化期以降23冊撮影されている。
また、当家は1860年(万延1)ころから鉱山経営に関わりはじめ、美濃国飯地村岩浪鉱山に関するもの、とくに穴馬角野鉱山には明治10年代まで関わっていた。
否撮文書は約250点で、大半が明治・大正期か年未詳の借用証文、売券、割帳(下荒井区)、惣山割帳などである。この他に「下荒井村洪水変地絵図」等の絵図が8点ある。
利用条件
 
県史収載
資料編7 P.621-637 16点、通史編4 P.336、P.479、P.731、P.769
県史以外の収載
『勝山市史』
複製本番号
J0368~J0432
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。