面谷会文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
I0132
資料群名
面谷会文書
地域(近世,行政村,現在)
大野郡箱ケ瀬村,上穴馬村面谷,(大野市面谷)(和泉村)
資料の年代
1707年(宝永4)~1954年(昭和29)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
この文書群は元来面谷区有文書であったが、面谷区消滅後旧区民がつくる「面谷を偲ぶ会」が管理している。
面谷村は九頭竜川の支流面谷川の中流域に位置し、面谷銅山の開山によって持穴村地籍に箱ヶ瀬村の枝村として成立した鉱山集落である。はじめ福井藩領、1624年(寛永1)以降大野藩領。銅山の創始は地元では天正年間(1573-92)と伝えられ、『越前国名蹟考』では69年(寛文9)、福井大火のあと材木を伐採したとき銅を発見したとされるが正確なことはわからない。
銅山は最初大野町の町人達が元締めとなり経営していたが、1791年(寛政3)大野藩藩営となり、97年には大坂の泉屋(住友)の経営となった。その後1832年(天保3)再び藩営となり、藩により生産の管理・経営が行われた。廃藩後は旧藩主土井家を経て73年(明治6)面谷村民に経営が移り、88年からは三菱の経営になった。
日清戦争(1894-95)後の軍拡にあって銅の需要が高まり、1901年には収益が第1のピークとなったが、その一方で同年には低賃金を不満とした坑夫のストライキも起こっている。その後不況によって収益が悪化し、明治末年には赤字決算となるときもあった。良質の鉱脈が少なくなる中、16年(大正5)には大戦景気で開山以来最大の収益をあげたものの、その後は賃金上昇や良質な鉱脈の枯渇、銅価格の暴落などの原因により22年(大正11)廃坑となり、村も消滅した。
資料群の概要
近世文書が30点弱、残りが近代文書であり、(1)山論関係、(2)鉱山関係、(3)その他、に大別される。
(1)については当村が持穴村地籍、箱ケ瀬村の枝村だった関係上、この2つの村と深い関係にあり、争論もしばしばおこった。山境や銅精錬用の炭の原料となる木の利用など、明治に入っても争論が続いていたことが確認される。
(2)では県史収載の「弁財天神額献文」により、坑道の水抜き工事が難航しており、それがようやく完成したため銅の増産が可能になったことがわかる。これが大野藩の幕末の藩政改革に一定の役割を担った。この他、住民が持っていた鋪(坑道)の境界を示す証文類があり、その具体例を知ることができる貴重な例である。また、近代文書では村の盟約証が多数あり、1894年(明治27)の三菱への差入証には区民関係の場所で煙害・鉱毒等操業の結果として生ずる被害があっても決して異議を申し出ない旨の文章があり、住民すべてが鉱山と深く関係している様子がうかがえる。また、三菱が開いた中天井鉱山関係の資料も見られる。
(3)は売券や借用証などである。
否撮文書は58点。ほとんどが近代文書で、誓約書、会社への差入証、区民の申合せ、土地の譲渡、借用証などである。
利用条件
 
県史収載
資料編7 P.956-968 10点、通史編4 P.340
県史以外の収載
『和泉村史』
複製本番号
I1364~I1366
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。