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福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
I0105
資料群名
林良彦家文書
地域(近世,行政村,現在)
大野郡田野村,富田村田野,大野市田野
資料の年代
1627年(寛永4)~1920年(大正9)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
田野村は真名川の右岸にあり、南に塚原野が広がる。塚原野・荒島岳に入会地をもっていた。用水は真名川から取水する五か村用水(井口・下麻生嶋・川嶋・田野・上麻生嶋の5か村)によったが、村高は864石余。はじめ福井藩領、1624年(寛永1)木本藩領、35年福井藩預所、37年福井藩領、45年(正保2)松岡藩領、1721年(享保6)以降福井藩領。
林家は彦左衛門を称し、庄屋などを務めた。上麻生島村に越石を持っていた(1793年には61石余)。
林家は彦左衛門を称し、庄屋などを務めた。上麻生島村に越石を持っていた(1793年には61石余)。
資料群の概要
所蔵文書のほとんどが江戸期のもので、明治期の資料は貢租、地租改正時の入会地関係や村定などである。
江戸期の資料は、(1)貢租、(2)入会地・参剥山(塚原山)、(3)用水、(4)橋・渡し舟、(5)売券・借用証文類、(6)村方一般、などに分けられる。
(1)は、当家彦左衛門が所持していた麻生島村越石分についての皆済状である。(3)の用水には、九頭竜川筋の四か村用水(桐用水)と真名川筋の五か村用水(井口用水)があり、田野村は後者に属していたが渇水時には前者から引水したためこの引水をめぐって桐用水組合村々(土打・上野・富島・森目の4か村)との争論があった。1706年(宝永3)には江戸裁許となっており、その後99年(寛政11)・1815年(文化12)にも済口証文が取り交わされた。また、後者の用水については新田開発や落水をめぐっての争論がみられる。(4)の橋は真名川筋の田野村と菖蒲池村との間に架けられていたが、1825年(文政8)流されたため、舟渡しに戻った。この舟渡しは田野村と井口村の組合でなされており、この運営に関する資料がある。
(5)は1660年(万治3)以降幕末まで約150点を数える。このなかには、茶代を代物とした年季証文もある。(6)には、誤り証文、村送り状、見取米用捨願、村方改革規定などのほか百姓家株証文がある。田野村では、1817年(文化14)に26の家株を作り百姓の増減を抑えようとしており、この村勢の維持・発展の考えは1920年(大正9)の「百性家連判補足決定証」にも引き継がれた。
否撮資料は高譲状、売券、猿ケ谷入会組合定約や入会大原山小全図などである。
江戸期の資料は、(1)貢租、(2)入会地・参剥山(塚原山)、(3)用水、(4)橋・渡し舟、(5)売券・借用証文類、(6)村方一般、などに分けられる。
(1)は、当家彦左衛門が所持していた麻生島村越石分についての皆済状である。(3)の用水には、九頭竜川筋の四か村用水(桐用水)と真名川筋の五か村用水(井口用水)があり、田野村は後者に属していたが渇水時には前者から引水したためこの引水をめぐって桐用水組合村々(土打・上野・富島・森目の4か村)との争論があった。1706年(宝永3)には江戸裁許となっており、その後99年(寛政11)・1815年(文化12)にも済口証文が取り交わされた。また、後者の用水については新田開発や落水をめぐっての争論がみられる。(4)の橋は真名川筋の田野村と菖蒲池村との間に架けられていたが、1825年(文政8)流されたため、舟渡しに戻った。この舟渡しは田野村と井口村の組合でなされており、この運営に関する資料がある。
(5)は1660年(万治3)以降幕末まで約150点を数える。このなかには、茶代を代物とした年季証文もある。(6)には、誤り証文、村送り状、見取米用捨願、村方改革規定などのほか百姓家株証文がある。田野村では、1817年(文化14)に26の家株を作り百姓の増減を抑えようとしており、この村勢の維持・発展の考えは1920年(大正9)の「百性家連判補足決定証」にも引き継がれた。
否撮資料は高譲状、売券、猿ケ谷入会組合定約や入会大原山小全図などである。
県史収載
資料編7 P.385-386 1点
県史以外の収載
 
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
I1052~I1055
関連資料一覧
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