花倉家文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
I0067
資料群名
花倉家文書
地域(近世,行政村,現在)
大野郡中野村,下庄村中野,大野市中野
資料の年代
1564年(永禄7)~1890年(明治23)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
花倉家は本姓松田氏で、代々与三左衛門(与惣左衛門)を襲名し、江戸時代は「はなくら」・「鼻黒」などと通称された当地方きっての豪農である。1780年(安永9)「当家世代并一類年代記」によれば、鎌倉初期の朝倉高清の子宗清を祖とし、但馬国朝来郡松田荘が本貫という。戦国時代には大野郡の土豪として活躍し、はじめ亀山山麓に住んでいたが、1576(天正4)からの金森長近の城下町建設に際して、亀山および山麓を献上して現在地に屋敷替をしたと伝えられている。江戸時代は代々の領主から持高のうち350石余りの諸役が免許され、鎗・乗鞍が許されるなど「郷士」として特別の扱いをうけていた。
中野村は大野町の北端に接し、はじめ福井藩領、1624年(寛永1)以降は大野藩領であった。村高は正保郷帳で1487石余(天保郷帳は1785石余)であったが、年貢免状などでは827石余が村高とされ、残る659石余が「鼻黒分」として、年貢も別納で郡奉行の直支配になっていた(武田知道家文書参照)。こうした扱いは土井氏の時代になっても変わらず、平常の帯刀、年頭独礼、高足が許される一方、1732年(享保17)大庄屋制が採用されると同時に、野尻源右衛門家と共に大庄屋に任命された。
資料群の概要
大部分が冊子で、1598年(慶長3)「太閤検地帳」(写)や、葭原検地帳などの土地関係と、1832年(天保3)以降70年(明治3)までの用留12冊、寛政年間(1789-1801)以降の大部な日記帳などがある。
この日記には大野藩大庄屋の年中行事が毎年記載されているほか、1808年(文化5)の下山村の枝村岡畑の雪崩の被害などや、心学者の巡回の記事なども記載されており、利用価値は高い。しかしこの資料は、簿冊が壊れてばらばらになっていたものを、近代になってから編綴しなおしたと思われ、全体にわたって乱丁になっている。使用にあたっては相当の注意が必要である。
1792年(寛政4)「智鏡尼上座遺訓」は、老母・幼児3人と膨大な借財を抱えて未亡人となった当家25代当主の妻女「智鏡尼」が、「二十年来難儀苦業」して家を守りぬき、長男に家督を譲る際に書き残したもので、筆跡・文章ともに優れており、女性の書いた家訓として注目されるものである。
一紙文書は資料編収載の中世文書のほか、諸役免許状、大野藩御用金、当家が関わった土地争論関係に限られるが、1634年(寛永11)「(本多織部諸役免許状)」では、松平直政が寛永10年松本に転封後、松平直基が大野に入封するまでの約2年間、丸岡藩が直政の所領を預ったことが確認できる。
利用条件
 
県史収載
資料編7 P.370-385 19点、通史編3 P.171 P.766-771、通史編4 P.206-209 P.482 P.528 P.737 P.739
県史以外の収載
『大野市史』
複製本番号
I0719~I0767
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。