中村三之丞家文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
H0054
資料群名
中村三之丞家文書
地域(近世,行政村,現在)
南条郡河野浦,河野村河野,南越前町河野(河野村)
資料の年代
1537年(天文6)~1871年(明治4)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
河野浦は、隣接する今泉浦と共に府中と結ぶ西街道の終点に位置し、陸上交通と海上交通の接点にあたる要所である。当地の浦馬借は、中山・中津原などの山内馬借と共に陸上交通に活躍した。なお、当駅の役馬数は6匹であった。
江戸時代を通じて福井藩領。村高は、正保郷帳では46石余、天保郷帳から20石の改出を含めて66石余となる。1789年(寛政1)の村明細では村高46石余であるが、94年10月の記録に「寅御検見様之時節当地上田下田御改被仰付候、依之指上ケ申御書付之写」として高66石余のうち20石の改出がみられる(河野浦区有文書)。このことから、この年以降村高が増加したものと考えられる。89年の家数64軒(高持8、雑家56)、人数324人、弁才船3艘、柴船7艘、午6匹であった。免は4つ7歩、小物成には大網役30石、船役13石余、山手役16石余などがあった。夫米・糠藁役は「往還御伝馬継」により掛からなかった。
中村家は中世から当浦の刀祢職などを有したと思われ、近世では三郎右衛門を名乗り、庄屋などを務め、河野・今泉浦の口銭役所にも関係した。幕府巡見使通行の折には、今泉浦の三郎右衛門(浜野源三郎家)らと共に本陣を務めた。また、当家は海運業にも従事し、1806年(文化3)には弁才船2艘、84年(明治17)5艘の北前船を所有し、当浦の右近権左衛門と並ぶ廻船問屋の一つであった。当家は、明治後期(40年代か)から北洋漁業(サケ・マス漁業)に従事するようになり、大正期まで続けられた(刀禰勇太郎「海商『中村家』の勘察加漁場経営」)。北前船主から西洋型帆船・汽船への転換を図った右近家と別の経営に進んだことを知ることができる。
資料群の概要
中世資料は、官途補任状などと、河野浦の背後にある舟寄山関係のものである。舟寄山をめぐっては、隣の赤萩村との争論が絶えず、これに関する安堵状や証文類などである。
近世資料は、(1)舟寄山関係、(2)巡見使関係、(3)口銭取立帳、(4)蔵米輸送関係、(5)拝借米願・村増励仕法関係などである。このうち、(1)は赤萩村との出入に関しての起請文や願書類、近隣の村々の請証文などである。特に赤萩村は生業の一つに炭焼があり(1870年の運上書上帳によると、赤萩村には炭焼16人・鍛冶炭焼10人がいる)、この村との争いは中世以来継続していた。
(4)は、廣瀬村御蔵米の敦賀の打它彦次郎への運送に関するもので、当家がこの米宿を務めていた。1811年(文化8)には、米1877俵を10月27日から12月3日にかけて7回に分けて運送しており、この蔵敷・運賃として米27俵余(1俵あたり6合8勺4才)を得ている。なお、運送には今泉浦9人・河野浦10人があたっており、1回の運送に平均30俵の米を積んでいる。両浦の運送した俵数は、ほぼ同数である。
明治期の資料は初年のもので、当家が里長を務めたため、当村をはじめとして近隣数か村の貢租・戸籍関係、引立会所関係、職業鑑札帳などがある。1870年(明治3)の当浦の職業改では、人数105人のうち、渡海船商売は当家や右近家を含む5人、伝渡舟8人、船稼86人などである。
利用条件
 
県史収載
資料編6 P.855-869 31点、通史編2 P.578・P.580・P.782、通史編3 P.54・P.311・P.453、通史編4 P.433、通史編5 P.666・P.668
県史以外の収載
「南条郡古文書目録」 『河野村誌』 『河野村古文書目録』
複製本番号
H0345~H0354
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。