丸岡斉家文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
H0047
資料群名
丸岡斉家文書
地域(近世,行政村,現在)
南条郡新川原村,南日野村関ケ鼻,南越前町関ケ鼻(南条町)
資料の年代
1601年(慶長6)~1880年(明治13)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
新川原(新河原)村は、日野川左岸の荒地(関ケ鼻)を開発してつくられた村で、村内を北陸道が通る。開発は1601年(慶長6)結城秀康の入封直後から始まり、04年に22石余(1町7反余)、28年(寛永5)に54.582石(5町1反3畝)が高付けされた。村名は、元禄郷帳から「東大道枝郷新河原茶屋村」としてみられ、村高は44.582石とされており、これ以降の郷帳においても変わることはない。
親村の東大道村とともに、1645年(正保2)から1721年(享保6)まで松岡藩領となった時期をのぞいて福井藩領である。村高が28年の検地高にくらべて10石減じているのは、後述するように52年(慶安5)に、この10石分が脇本村へ改出分として移されたことによる。1873年(明治6)、当村は東大道村に合併されたが、81年に分離して再び新川原村となる。現在の関ケ鼻と改称された時期は不明である。
丸岡家は、先祖源吾の代に関ケ鼻を開発したと伝え、村高すべてを所持し、福井藩から諸役を免除されていた。検地帳には、屋敷地の記載がなく、当家は当地に居住していなかったと考えられる。源吾は松平忠直の豊後配流の際供奉し、帰国後は西大道村に住んだようである。1662年(寛文2)ころから茶屋村として、村が成り立ったようである。1787年(天明7)の家数24(高持1,雑家23)、1838年(天保9)の家数19(高持1、雑家18)、人数77人である。また、48年(弘化5)の資料に、「往古ハ私一村壱軒ニ有之候処、其後茶屋追々開基仕」とあり、当村は北陸道脇本宿と鯖波宿の間の茶屋村として成立したものと考えられる。
資料群の概要
約200点を調査し、うち約160点を撮影した。
江戸期の資料は、(1)関ケ鼻開発の由来および検地帳類、(2)村高の所持をめぐる慶安期の争論、(3)東大道村とのおろし地引揚げをめぐる安永期の争論、(4)新川原村荒地への東大道村の鍬入れをめぐる弘化・嘉永期の争論、(5)松平忠直の豊後配流期の諸品受取状、(6)丸岡家系図・由緒、(7)その他、からなる。
(2)は、開発主源吾の倅源太と娘婿の脇本村源五右衛門との開発高支配をめぐる争いで、44石余を源太が、10石を源五右衛門が所持することとなった。この10石分が脇本村改出分とされた。(3)(4)は、いずれも郷帳類に新川原村が東大道村枝郷とされていることに代表されるように、当村が親村との関係を断ち切ろうとすることが根底にある。年貢上納は東大道村を通じて行われており、(3)の争論では「高本」は源吾、「取 」は東大道村とされており、以後変わることはない。(4)の争論は未開発地(荒地)の帰属をめぐるもので、決着はつかず、1846年(弘化3)には願書は戻された。これに対し、源五側は48年(嘉永1)江戸の藩主へ直訴を行ったが、翌49年3月には「論地御取揚」、8月「御預地」となり、源五側の要求は認められなかった。
明治期の資料は、(1)高帳・おろし帳、(2)東大道村小作人の地券書上げをめぐる争論、(3)分村願、(4)用留などである。明治に入っても、年貢の直納願は続けられたが認められず、1872年(明治5年)には前年分の年貢受取書が東大道村に留め置かれ、さらに小作米や江料米が滞った。さらに、地券書上げにあたって、東大道村小作人が小作地を「持高同様地券書上致」したことにより争論が起こった。73年7月の済口証文によると、東大道村の地券書上げは認められず、また源五側の直納願・小作地引揚げも認められず、新川原村は東大道村に合併された。
否撮資料は、近世末から明治期にかけてのもので、手控帳、おろし帳、火事見舞帳、婚礼祝儀帳などである
利用条件
 
県史収載
資料編6 P.709-731 28点、通史編3 P.125
県史以外の収載
『南条町誌』『南条郡古文書目録』
複製本番号
H0316~H0328
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。