藤木太兵衛家文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
H0045
資料群名
藤木太兵衛家文書
地域(近世,行政村,現在)
南条郡奥野々村,南杣山村奥野々,南越前町奥野々(南条町)
資料の年代
1474年(文明6)~1927年(昭和2)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
奥野々村は日野川支流の奧野々川の上流に位置する。江戸時代を通して福井藩領で、石高は正保郷帳では277石余、元禄郷帳・天保郷帳では278石余となっており、年貢率は3ツ5分5厘、1768年(明和5)の高持21、雑家13。西方の菅谷峠越えで河野浦へ通じる道沿いに位置したため、福井藩の口留番所が置かれていた。当村倉カ谷にある曹渓寺は、中世には洞春院と称する真言宗寺院だったのが、1660年(万治3)に曹洞宗に改宗したものとされる。
当家は代々太兵衛を称し、村役人を務めた。また明治期には奥野々村の戸長や学務委員、南杣山村議会議員などを務めた。
資料群の概要
中世文書は県史収載の洞春院関係文書3点である。朝倉氏に寺領安堵を求めて提出された文書があるが、その中には国人瓜生氏により裏判がなされたものがあり、安堵の主体の移り変わりを示すものとして貴重である。
江戸期の資料は大部分が後期の庄屋関係文書であり、(1)貢租(2)村関係(3)永元寺関係(4)山方入会(5)私文書(6)その他、に分けられる。
(1)では年貢通、免状などがある。これらは1811-13年(文化8-10)、26-28年(文政9-11)、35-37(天保6-8)、47-49(弘化4-嘉永2)に集中しており、これは太兵衛が庄屋を務めた時期と一致する。また、「奥野々村明細書上」には1760-1861年(宝暦10-文久1)の年貢率や村への下行米等が記されており、作況の参考になる。病虫害による見分願、拝借金返済延期願なども見られ、山間の不安定な農業経営の一端がうかがえる。
(2)では、藩から在方への触・達のほか、村盛帳・慶応年間(1865-68年)の軍用人足書上などがみられる。
(3)の光見山永元寺は、もと横越の証誠寺末と考えられ、1657年(明暦3)に京都仏光寺派に改宗している。1841年(天保12)の百姓への借金が返済できなくなり、56年(安政3)には財産を売り払い、さらに不足分を永代経で支払うという内済が成立している。
(4)では1856年に鯖波村との間で参剥山をめぐる争論が起こっている。7月17日、鯖波村から「男子不残罷越、人勢ヲ以押伐りニ伐り倒し、其上にて惣山横領」したことに端を発したこの争いは、立合いと認めた2か所を除いた残りの山を、双方が一円支配の地として譲らなかったが、翌57年(安政4)、奥野々村が「山稼第一之所柄」であるため、争点の3か所の山支配を認められ、鯖波村は今までの山手米負担(2石8斗2升9合)が過重であるので、奥野々村が8斗を負担し、2か所の立会山は境界を定め、くじ引きによって支配箇所を定める、ということで内済となった。耕地の少ない奥野々村にとってこの争論は非常に重要な意味を持ったとみられ、冊子を含め14点の資料が存在する。なお、この争論については鯖波村の石倉家にも関連文書があるので、そちらも参考にされたい。
(5)は主に売券・借用証文、小屋の作事願などである。
(6)では、信仰心の薄い女性が僧侶に諭されて仏教に深く帰依する「おなつ物語」、日常生活に必要な計算の方法を記した和算録(前欠のため正式な題は不詳)などがある。
否撮資料は200点を超え、上納金関係、売券・稲数帳・香典帳・借用証文・物成銀受取本帳、明治期では諸税や村盛の割当、日記類、卒業証書、役場届綴りなどがある。
利用条件
 
県史収載
資料編6 P.708-709 3点、通史編2 P.533・662、通史編4 P.490
県史以外の収載
『南条郡古文書目録』『南条町誌』『福井市史』
複製本番号
H0037~H0038、H0295~H0315、H0369~H0372
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。