鵜甘神社文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
H0043
資料群名
鵜甘神社文書
地域(近世,行政村,現在)
南条郡堂村宮谷村,北杣山村堂宮,南越前町堂宮(南条町)
資料の年代
1468年(応仁2)~1909年(明治42)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
当社は日野川の右岸、山王山西麓に鎮座。旧郷社。「越前古名考」は当社を「延喜式」神名帳にみえる敦賀郡の「伊部磐座神社」に比定し、「越前国名蹟考」では「太平記」巻一八(瓜生挙旗事)にみえる「飽和ノ社」に比定する。また、社伝は今立郡の式内社鵜甘神社の前身とも伝えるが、不詳。社記によれば白鳳2年に近江坂本山王権現に倣って上中下21社を勧請したのが創始としている。「正安四年 従一位兼基女寄付 左衛門尉光盛作」との銘記を持つ能面を所蔵。その中の1面「王の面」(鼻高面)は王の面としては現在わが国最古のものとされており、県文化財となっている。また、瓜生判官保寄贈と伝える狛犬・刀なども所蔵。さらに、社記によれば新田義貞も神領と共に社殿を寄進しており、神器及神輿の飾りなどが伝存している。代々の越前国司も社地を寄進するなど社領74町歩に及び盛大を極めた模様であるが、元亀・天正年間(1570-1591)兵火にあい社殿などを焼失。1596年(慶長1)、郷中13ケ村の氏子や当集落の人々によって再建された。江戸期には杣山日吉山王社と称し、杣山13ケ村の惣社であった。
堂村宮谷村は、妙泰寺や当社の旧地にあたり、これらの周辺にそれぞれ集落が形成されたことが村名由来と伝える。社家36軒・神子8人・宮仕え6人が参道両脇に軒を連ねていたともいう。はじめ福井藩領、1686年(貞享3)幕府領、1764年(明和1)から三河国西尾藩領となる。「正保郷帳」では村高325石余。「元禄郷帳」より堂村と宮谷村に分けて記載されている。しかし、両村はあわせて一村として機能し、村役人も堂村宮谷村として置かれていた。
資料群の概要
撮影文書は35点。
(1)社記・由緒・縁起類(2)神事関係(3)神主の系譜・継目関係(4)その他に分けられる。(1)は8点。中世資料として1468年(応仁2)の神社社記があるが、1599年(慶長4)の神社社記はその写しと思われる。この神社記などから当社の由緒の全容をつかむことができる。(2)は9点で、「神社祭礼之次第」や「神楽献立」、雨乞や旅の無事を祈る願書・神文類などがある。(3)は神主稲川家の代々記や位記、継目願など12点。(4)は6点で、装束の色彩や社家の行動について厳しく示達している「本所下知書」や借用証文類、また、近代のものでは神社明細帳、南越親睦会規約などがある。
否撮資料は7点。山王宮絵図や上京道中日記帳、借用証文等である。
利用条件
 
県史収載
通史編1 P.342
県史以外の収載
『越前国名蹟考』『南越温故集』『福井県南条郡誌』『南条町誌』
複製本番号
H0294
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。