宮地儀兵衛家文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
H0042
資料群名
宮地儀兵衛家文書
地域(近世,行政村,現在)
南条郡牧谷村,北杣山村下牧谷,南越前町下牧谷(南条町)
資料の年代
1613年(慶長18)~1942年(昭和17)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
牧谷村は日野山の南山麓、千石谷山とに挟まれた谷の奧に位置し、牧谷川に沿って集落を形成している。はじめ福井藩領で、1686年(貞享3)から幕府領、1759年(宝暦9)から旗本金森左京領であった。村高は「正保郷帳」「元禄郷帳」では田471石余、畑408石余、合計880石余であるが、「天保郷帳」では608石余であり、1745年(延宝2)の「丑年御成箇可納割付之事」によれば石高は596石余と減石されている。村内は上組と下組に分かれ、それぞれ村役人をおいた。
当家は代々儀兵衛を称し、村役人を務め、早くから苗字帯刀を許されていた。また、寛政年間(1789-1801)から急激に持高を増やし「賄方」の1人として金森家の財政に関与した。「賄方」の役割は領主の財政管理と百姓からの年貢徴収を肩代わりすることであり、1799年(寛政11)には清水村の高木治左衛門を頭として4人がこれに携わっていた。1807年(文化4)には趣方が改正され、役割が更に拡大することになったが、金森家に経費節約や「賄方」の辞職を申し出るなど、費用捻出に苦しんでいた。
大正から昭和にかけて、当主の祖父義宣氏は県会議員や北杣山村長を歴任した。
資料群の概要
当家の文書は(1)村方関係、(2)金森家「賄方」関係、(3)酒造関係、(4)用水関係、(5)家文書、(6)その他、に大別できる。
(1)では年貢やおろし作などに関するものが数多く見られ、とくに約70点にのぼる皆済目録は享保年間(1716-36)から安政年間(1854-60)にわたっており、当家の石高が天明年間(1781-89)までは約13-16石前後で推移しているのに、1789年(寛政1)に26石、90年に33石、93年に47石、1800年59石、03年(享和3)69石、10年(文化7)86石と急速に石高を増やしていることがわかる。また、入会山や清水村と東谷村の山論の内済証文など、山をめぐる文書も多い。
(2)では、県史収載の9点の他、御用金の割当一覧、過重負担を原因とする役御免願などが見られ、財政を任された「賄方」が費用捻出に苦しんだ様子がうかがえる。
(3)では、酒造米の取立帳や仕込みに関するものの他、酒造株の譲渡の際、株札の有無をめぐって売主から問合せがあり、結局、「往古には株札は存在せず、道具一式が株札に相当する」という見解が出されている。
(4)では、牧谷村の新田開発により下流の鋳物師村が水不足となって争論が起こり、新田を畑地にすることで内済をみた一件(1791年)や、牧谷村飛地と鋳物師村が通水する大井用水の取水口をめぐって、日野川対岸の鯖波村との争論があったことが知られる。とくに後者は、日野川の氾濫によって流路が変わるので、しばしば争論に発展した。
(5)は田畑の売券やおろし作に関する証文、借用証文が中心で、他に講、養子や嫁取りの持参金、大工普請などに関わる証文などがある。
(6)では、1942年(昭和17)の「福井県協力会議総常会会議録」がある。大政翼賛会の指導の下、思想・教育面の統制、生産拡充等、民間人が戦争遂行に協力させられていく様子がうかがえる。宮地義宣は協力会議の会議員で、「供出木材所得に対する所得税率改正の件」として税率引き下げを提案している。また、常会の中で、配給制度に関して特権階級や警察の不正を指摘する会議員の発言があるのが注目される(最終的には取り消している)。
否撮カードは約420点で、出納記録、田畑おろし帳、貸方改帳、借用証文、盛帳、書状類などが中心である。
利用条件
 
県史収載
資料編6 P.732-745 12点、通史編4 P.29
県史以外の収載
『南条郡古文書目録』『南条町誌』
複製本番号
H0257~H0277
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。