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福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
H0039
資料群名
宮川五郎右衛門家文書
地域(近世,行政村,現在)
南条郡大谷村,河野村大谷,南越前町大谷(河野村)
資料の年代
1597年(慶長2)~1858年(安政5)
資料目録件数
6
組織歴および履歴
大谷浦は1598年(慶長3)には大谷吉継が支配し、江戸時代に入って福井藩領となった。村高は72石余で、家数は1852年(嘉永5)で61軒(高持31、雑家30)であった。
宮川家は向山治郎右衛門家とともに庄屋等を務めた。 同家文書は1982年の県史調査以前に一部が女子美術大学の所蔵となっており、その後99年にこの女子美大所蔵分は河野村(現南越前町)の所蔵となった。
宮川家は向山治郎右衛門家とともに庄屋等を務めた。 同家文書は1982年の県史調査以前に一部が女子美術大学の所蔵となっており、その後99年にこの女子美大所蔵分は河野村(現南越前町)の所蔵となった。
資料群の概要
宮川家に残されたものは近世に入って作成された729年(天平1)「大谷浦立始候四至堺目事」という地堺争論に使用された偽文書や資料編収載の福井藩成立当初の年貢皆済状など6点にすぎないが、女子美大から河野村に所蔵替となった分は同大学の調査によれば、約13,000点におよぶ。このうち撮影分は約200点(目録作成時点で430点に細分化されている)でごく一部にすぎないが、向山治郎右衛門家文書と併せ見ることで、中世末から近世の大谷浦の動向をほぼ一貫して追うことができる。
内容は(1)法令布達(2)土地(3)貢租(4)村方(5)戸口(6)普請(7)商業(8)村方騒動(9)水戸浪士関係(10)家(11)日記(12)近代に分類されており、向山家(H0029)と共通する部分が多いので同家の概要を参照されたい。
特徴的なものとして、当浦が小浜藩領(後に鞠山藩領)比田浦に接していたことや磯廻り船による河野浦と敦賀湊との間の物資輸送が盛んで当浦がその中間点にあたることなどにより、福井藩の口留番所が置かれていたことから、(1)に沖ノ口の「止め」と「明け」の指令書が約40通あり、年代は確定できないが、福井藩の流通政策の一端をうかがうことができる。
(11)は近世後期から明治初年にかけての日記類で、様式、記載内容は様々であるが、(10)に含まれる私的な内容のものも含めると10冊ある。なかでも、1747年(延享4)「丁卯ノ年用日記」は敦賀湊の船の出入や商人の様子について細々とした記述がある。また「大谷浦村法諸事日記」には85年(天明5)3月、敦賀湊において大谷浦の持舟5艘が難舟した記事があり、丸潰三艘の舟主(五郎右衛門、左衛門太郎、仁兵衛)、半潰2艘の舟主(刀祢、向山)の名が上がっており、有力な農民は舟を持ち、敦賀湊を中心に商業を営んでいたことがわかる。
1848年(嘉永1)5月には「異国イキリス運船数艘入国につき邑中締り方」として「夜中はかかり焼き、昼は竿先へ白木綿をくくり多勢に見せかけ、岡方へ上らす様仕組、家中に明松用意させ村役厳重に締り致させ」と福井藩の対応策を記している。海岸防備に関する記事は多く、1863年(文久3)5月10日の福井藩の米国製木製蒸気船黒龍丸の入港についても、「五月十日越前様御手船異国船同様船敦賀入船有之也」と記している。一方では、1785年(天明5)12月の記事に「雑家次郎兵衛乞食に罷出、子供弐人江戸表に罷有候由」との藩の吟味に対する口書で「下地困窮の村方近年凶作にて弥増に困窮に落入、村過半乞食に罷出候所、昨冬より当春に至、不残罷帰候」と天明飢饉下の状況が記される。そして、次郎兵衛のみ行方知れずで、すでに大庄屋に届け出済みであること、その後の調べで次郎兵衛は昨年4月頃府中で病死し、妻子の行方はわからないこと、子供は3人だが該当するとすれば、次弟が13歳、末娘が8歳であると届けている。飢饉下、江戸の人口流入増への対応策の一端を見ることができる。
(12)は12点撮影されているだけであるが、(年未詳)「越前国南条郡大谷浦政表」は1875年(明治8)から81年(同14)にかけて陸軍参謀本部により作成された『共武政表』の個表原稿である。明治前期には戸長、副戸長を務めており、ほかにも大量の戸長役場文書があると思われる。
内容は(1)法令布達(2)土地(3)貢租(4)村方(5)戸口(6)普請(7)商業(8)村方騒動(9)水戸浪士関係(10)家(11)日記(12)近代に分類されており、向山家(H0029)と共通する部分が多いので同家の概要を参照されたい。
特徴的なものとして、当浦が小浜藩領(後に鞠山藩領)比田浦に接していたことや磯廻り船による河野浦と敦賀湊との間の物資輸送が盛んで当浦がその中間点にあたることなどにより、福井藩の口留番所が置かれていたことから、(1)に沖ノ口の「止め」と「明け」の指令書が約40通あり、年代は確定できないが、福井藩の流通政策の一端をうかがうことができる。
(11)は近世後期から明治初年にかけての日記類で、様式、記載内容は様々であるが、(10)に含まれる私的な内容のものも含めると10冊ある。なかでも、1747年(延享4)「丁卯ノ年用日記」は敦賀湊の船の出入や商人の様子について細々とした記述がある。また「大谷浦村法諸事日記」には85年(天明5)3月、敦賀湊において大谷浦の持舟5艘が難舟した記事があり、丸潰三艘の舟主(五郎右衛門、左衛門太郎、仁兵衛)、半潰2艘の舟主(刀祢、向山)の名が上がっており、有力な農民は舟を持ち、敦賀湊を中心に商業を営んでいたことがわかる。
1848年(嘉永1)5月には「異国イキリス運船数艘入国につき邑中締り方」として「夜中はかかり焼き、昼は竿先へ白木綿をくくり多勢に見せかけ、岡方へ上らす様仕組、家中に明松用意させ村役厳重に締り致させ」と福井藩の対応策を記している。海岸防備に関する記事は多く、1863年(文久3)5月10日の福井藩の米国製木製蒸気船黒龍丸の入港についても、「五月十日越前様御手船異国船同様船敦賀入船有之也」と記している。一方では、1785年(天明5)12月の記事に「雑家次郎兵衛乞食に罷出、子供弐人江戸表に罷有候由」との藩の吟味に対する口書で「下地困窮の村方近年凶作にて弥増に困窮に落入、村過半乞食に罷出候所、昨冬より当春に至、不残罷帰候」と天明飢饉下の状況が記される。そして、次郎兵衛のみ行方知れずで、すでに大庄屋に届け出済みであること、その後の調べで次郎兵衛は昨年4月頃府中で病死し、妻子の行方はわからないこと、子供は3人だが該当するとすれば、次弟が13歳、末娘が8歳であると届けている。飢饉下、江戸の人口流入増への対応策の一端を見ることができる。
(12)は12点撮影されているだけであるが、(年未詳)「越前国南条郡大谷浦政表」は1875年(明治8)から81年(同14)にかけて陸軍参謀本部により作成された『共武政表』の個表原稿である。明治前期には戸長、副戸長を務めており、ほかにも大量の戸長役場文書があると思われる。
県史収載
資料編6 P.944-952 9点、通史編3 P.438・443、通史編4 P.409・P.690
県史以外の収載
『河野村誌』、『宮川・向山家文書目録』、野尻泰弘「近世初期における境目争論と「天平元年」の古文書」(『駿台史學』158 2016年)、野尻泰弘「近世初期における日本海沿岸地域の社会構造と生業」(『明治大学人文科学研究所紀要』88 2021年)
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
H0329
関連資料一覧
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