慈眼寺文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
H0033
資料群名
慈眼寺文書
地域(近世,行政村,現在)
南条郡小倉谷村,宅良村小倉谷,南越前町小倉谷(今庄町)
資料の年代
1321年(元亨1)~1894年(明治27)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
小倉谷村は日野川支流の田倉川上流域に位置する。はじめ福井藩領で、1686年(貞享3)から幕府領。「正保郷帳」によれば村高は田285石余、畑175石余、合計461石余であったが、1740年(元文5)と57年(宝暦7)の田倉谷の大洪水によって「天保郷帳」「旧高旧領」では239石となった。
当寺は普門山と号する曹洞宗寺院で、1387年(嘉慶1)龍泉寺開山通幻寂霊の門下十哲の一人、天真自性の開基である。その門下から機堂・快翁・英仲・希明の四派が出て、法系を全国に伸長した。盛時には塔頭12、尼庵4、末流寺院1200余を有していたという。
1686年(貞享3)、永平寺と総持寺の話し合いにより従来の1年交代の輪住制を廃し、独住制となった。
資料群の概要
県史資料編掲載文書のうち14点は中世文書である。このうち最古(1321年)の「仏念・友吉連署名主職去状」と本寺との関係は不明であるが、文書中の宅良村友貞名がのち寺領となったとも考えられる。また、1531年(享禄4)の「慈眼寺納所方置米置文」では、州乾が住持を務めていたときに、越中守護代神保氏の家臣小島六郎左衛門が置米15石を寄進している。この文書に連署している5名(州乾・夫巖・大英・大雄・雷沢)はいずれも当寺の住持を務めた。このうち州乾と雷沢は機堂派で、小島氏だけでなく越中守護代神保氏も同派を受容していた。他の3名は希明派で、朝倉氏の菩提寺である一乗谷心月寺に歴住しており、越中国では椎名氏が同派を庇護していた。
1575年(天正3)の「府中三人衆連署状」は、不破光治・佐々成政・前田利家が、従来通り当寺の霊供米21石の収納権を認めたものである。同年の織田信長の越前一向一揆攻めにより、福井牢人衆の諏訪三郎に「宅良谷一円支配」が認められたが、府中三人衆によって数カ月後に当寺の権益が復活したものである。
近世以降の文書は除地・大工役、開山遠忌や寺堂修造のための勧化、寺規、末寺関係、寺領山林、売買・貸借などが中心である。
このうち勧化関係では1611年(慶長16)の開山200年遠忌の寄進帳があり、これにより末寺の各地へのひろがりが確認される。他に1709年(宝永6)、1854年(嘉永7)に火災が発生し、寺堂の修造を求めるものなど20点余がある。
寺領に関しては、県史収載文書を含め、付近の住民との争論に関するものが11点ある。
除地に関しては1603年(慶長8)の結城秀康安堵状写によって寺領20石が寄進され、これ以降除地となっている。また、その他に境内と合わせて47石8斗余、山2カ所が除地とされていたことが確認できる。
否撮カードは1点で、1874年(明治7)の「円通寺書状」。
利用条件
 
県史収載
資料編6 P.769-785、25点、通史編2 P.101・P.643・P.989・P.990・P.991・P.992・P.993 通史編3 P.18・P.51・P.258・P.641・P.658
県史以外の収載
『越前若狭古文書選』 『今庄町誌』 『南条郡誌』『慈眼寺文書』 『南条郡古文書目録』
複製本番号
H0232~H0239
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。