伊藤助左衛門家文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
H0032
資料群名
伊藤助左衛門家文書
地域(近世,行政村,現在)
南条郡瀬戸村,宅良村瀬戸,南越前町瀬戸(今庄町)
資料の年代
1656年(明暦2)~1874年(明治7)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
瀬戸村は日野川上流右岸の、宅良谷の奥に位置する山村で、さらに上流に木地師が移住してきたと伝える高倉・芋ケ平の二つの枝村があった。村高は1646年(正保3)の郷帳では329石余であるが、1708年(宝永5)の幕府の検地では179石余に激減している。はじめ福井藩府中本多領、1686年(貞享3)幕府領、1764年(明和1)西尾領となり、1818年(文政1)再び幕府領となって幕末にいたった。
伊藤家は当村の庄屋などを務め、中期以降の近世資料約900点を所蔵する。享保年間(1716-36)に造られた国指定名勝の庭園がある。
資料群の概要
撮影資料は約600点で、なかでも貢租関係の割付状は170通(元禄1-慶応2)、皆済状は144通(貞享4-元治1)をかぞえ、幕府領になって以降の年貢収取の状況を幕末期まで一貫して追うことが可能である。とくに連年の引高は耕地の不安定な山村の一面をよく示している。1701年(元禄14)の引高は177石余(村高の54%)におよび、水損101石、川欠41石余、石砂入12石余など、壊滅的な打撃を受けていることから、1708年の検地はこの被害が考慮されたものであることがわかる。水害以外では、24年(享保9)の「猪鹿喰皆無引」15石余、85年(天明5)の「一村病難」で作付不能のため20石余などがある。
また、宗門人別帳は19冊(文政4-慶応4)残っており、人口の変動をみることができる。たとえば1821・33・39の各年の人口は、337・336・282と変化しており、1836年(天保7)の飢饉の影響が現れているのがわかる。
検地帳・土地台帳をはじめとする帳面類も豊富で、本田畑のほか、新田・砂田・山田畑、「むつし」などがよく記載されており、土地制度や江戸中期以降の奥山谷の開発の状況などがうかがえる。とくに、瀬戸村と高倉・芋ケ平との争論文書が80点余あり、両枝村が江戸時代を通じて本村から独立しようとしていた様子がわかり、木地師が次第に畑作に転換していく、木地師集落の成立過程を知ることができる。このほか、とりもち商いや紙漉業など山村の状況をよく示す資料がある。
明治初年のいわゆる壬申戸籍の村控が18冊ある。うち表紙に「十二冊共」「副長伊藤助左衛門」と記載された同様式のものが8冊ある。壬申戸籍編成のため伊藤助左衛門が敦賀県より「副長」に任命されたのは1872年(明治5)2月であり、記載内容では71年時点での年齢を72年時点に改めていることなどから、これらは、壬申戸籍の控えであり、また「十二冊共」とあるのは古木・温谷・馬上免・燧・長沢・杣木俣・芋ケ平・杉谷の8村分であるが、別に様式が異なるが瀬戸・高倉の分もあり、これに久喜・小倉谷を含めた12村がこの近辺の本保県管轄地であるから、本保県が存在した71年11月までにこれらの戸籍簿が作成されていたことがわかる。
否撮カードは近世資料のみ68枚であるが、用水普請帳84点、寺送り状93点など一括記載分が200点を超えるので、300点を超えると思われる。
利用条件
閲覧できない資料あり。
県史収載
資料編6 P.746-762 13点、通史編3 P.379-381・ P.388、通史編4 P.386-387・ P.490・ P.500
県史以外の収載
『今庄町誌』
複製本番号
H0200~H0231
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。