浜野源三郎家文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
H0026
資料群名
浜野源三郎家文書
地域(近世,行政村,現在)
南条郡今泉浦,河野村今泉,南越前町今泉(河野村)
資料の年代
1510年(永正7)~1878年(明治11)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
今泉浦は府中からの西街道の終点に位置し、海岸に沿って北に甲楽城浦、南に河野浦がある。隣接する河野浦とともに、中世以来府中・敦賀間の物資輸送の拠点であり、舟持と馬借がそれにあたっていた。江戸時代、当浦には口留番所や口銭役所がおかれた。
今泉・河野両浦とも江戸時代を通じて福井藩領。役馬数は5匹。今泉浦の村高は70石余、「往還伝馬継」のため夫米・糠藁は掛からなかった。小物成として大網役(米25石)、舟役(米15石)、山手米8.034石、肴役(銀13匁3分4厘)などがあった。1717年(享保2)の浦明細帳(西野次郎兵衛家文書)によると、免は2つ1歩、家数45、人数253人、船数12艘である。船の内訳は、北国船4・弁才船1・羽風船1・伝渡船6であり、海運業に従事していることがうかがえる。しかし、89年(寛政1)には柴船7艘があるのみで、渡海船は「難船破船」によりふるわなくなったようである。1838年(天保9)も同数であり、この年の家数は41軒、人数185人と以前にくらべ減少している。
浜野家は三郎右衛門を称し、村役人や問屋を務めた。明治に入り、庄屋や副戸長などを務めた。
資料群の概要
約400点を調査し、うち約370点を撮影した。
当家の中世文書8点は、売券や漁場争論である。
近世文書は、(1)西街道の商品輸送をめぐる争論関係、(2)口銭関係、(3)河野浦問屋との争論関係、(4)問屋職をめぐる村方との争論関係、(5)巡見使関係、(6)救恤関係、(7)家囲船場・往還道普請関係、(8)小物成銀帳、(9)その他に分けられる。
(2)の口銭関係には、1798年(寛政10)6月の「河野今泉浦出入之諸色口銭銀定帳」がある。これは、この年の5月に福井藩から「三国湊同様口銭取立被仰付」られたことによるものと考えられる(「命令之部」松平文庫)。
(3)は、河野・今泉両浦を経由して西街道を輸送される荷物の支配をめぐるものである。1730年(享保15)今泉浦・河野浦間の荷物出入において、「御公儀様御城米其外諸国商物ニ不寄今泉ニ支配」が認められていたが、92年(寛政4)には敦賀から越中高岡行き綿荷230箇のうち、90箇が今泉問屋へ、140箇が河野問屋へ積み送られたことで、今泉問屋は「好身客先」を河野問屋がとったとして訴えを起こした。これに関して、敦賀の荷主は、今泉浦の舟着所が破損したため河野浦「おこね(尾合根)浜」が「舟着所最寄勝手」よく河野問屋へ荷を送ったと述べている。この出入は翌年内済となり、河野問屋の参入が認められた。これより少し前の1789年の今泉浦の持船は「柴船」が7艘あるのみで、以前と比べて船稼ぎがふるわなくなっているようである。一方、同年に河野浦は弁才船3艘、柴船7艘を所持しており、船数でみてもすでに今泉浦の河野浦に対する優位性は失われており、このことは河野浦問屋との荷物配分出入の背景のひとつとなっていたと考えられる。なお、明治に入り、従来の西街道にかわって春日野新道が主流となった折には、「ツルカより河野浦ヲコ子へ、夫より武生荷物往来」となっており、河野浦の優位性がはっきりしている。
なお、敦賀と河野・今泉両浦との荷物輸送には「伝渡船」があたっていたようで、1845年(弘化2)の今泉浦の伝渡船は7艘であった。また、62年(文久2)の伝渡船による「敦賀行荷物運送方」は河野浦の舟持5人、今泉浦の舟持6人によってなされていた。
その他には、若連中定、浦湊触書、配布留などがある。
明治期の資料は、北海道産物取扱に関するもの、初年の村方諸算用帳、運上銀関係、救恤関係、御用留などである。
否撮資料は、家祝儀関係、火事見舞・普請帳、溜池・道普請関係などである。
利用条件
 
県史収載
資料編6 P.926-943 15点、通史編2 P.785、通史編3 P.290、通史編4 P.222・P.418・P.502
県史以外の収載
『河野村誌』 『河野村古文書目録』『南条郡古文書目録』
複製本番号
H0157~H0179
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。