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福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
G0510
資料群名
木津群平家文書
地域(近世,行政村,現在)
今立郡粟田部村,今立郡粟田部村,越前市粟田部町(今立町)
資料の年代
1553年(天文22)~1883年(明治16)
資料目録件数
37
組織歴および履歴
粟田部村は行司ケ岳(通称三里山)の東南麓に立地する在郷町で、江戸時代を通じ福井藩領であった。村高は1,633石余、1789年(寛政1)の戸口は373戸、1,458人の大村で、町場を形成して21か町からなっていた。今立郡の山間部と府中・鯖江両町などとの結節点にあたり、物資の集散地として商業活動が活発であった。
当家は粟田部の代表的な旧家で、撮影資料では判明しないが、『今立町誌』によれば「江戸初期以来次左衛門の家名を称して、元禄・寛延・寛政・嘉永などの当家記録に庄屋・長百姓・惣締の役職についており、明治以降は区長・村長・郡会議員・県会議員などの任にあたった」とある。粟田部村の「元禄十三年土目録」(『今立町誌』所収)の「高百四拾三石八斗弐升弐合 木 治左衛門」が当家のことならば、当時すでに町一番の高持である。
当家は粟田部の代表的な旧家で、撮影資料では判明しないが、『今立町誌』によれば「江戸初期以来次左衛門の家名を称して、元禄・寛延・寛政・嘉永などの当家記録に庄屋・長百姓・惣締の役職についており、明治以降は区長・村長・郡会議員・県会議員などの任にあたった」とある。粟田部村の「元禄十三年土目録」(『今立町誌』所収)の「高百四拾三石八斗弐升弐合 木 治左衛門」が当家のことならば、当時すでに町一番の高持である。
資料群の概要
撮影資料は(1)当家関係15点と(2)粟生寺関係資料12点からなる。
(1)には江戸時代中期のうるしかき関係資料があり、たとえば1697年(元禄10)「預り申金子之事」ではうるしかき職人に漆木買入資金を貸付け、かき出したうるしを残らず渡すように取きめており、宝暦期(1751-1764)では漆木を質に金を貸していることがわかる。このほか「村方高指引写」では1819年(文政2)から55年(安政2)の間、粟田部村の高持の変遷がわかる。
(2)は当家が粟生寺の檀中惣代を務めたことによるとおもわれ、1533年(天文22)の朝倉家臣小泉長利による田畠寄進状(写)や松平氏歴代の寺領安堵状などがある。このうち、中世文書2点は粟生寺文書として資料編に掲載されている。
なお、通史編4には当家文書として五分市鋳物師の吹屋再興の資料が紹介されているが、該当資料は見当たらない。
否撮カードはない。
(1)には江戸時代中期のうるしかき関係資料があり、たとえば1697年(元禄10)「預り申金子之事」ではうるしかき職人に漆木買入資金を貸付け、かき出したうるしを残らず渡すように取きめており、宝暦期(1751-1764)では漆木を質に金を貸していることがわかる。このほか「村方高指引写」では1819年(文政2)から55年(安政2)の間、粟田部村の高持の変遷がわかる。
(2)は当家が粟生寺の檀中惣代を務めたことによるとおもわれ、1533年(天文22)の朝倉家臣小泉長利による田畠寄進状(写)や松平氏歴代の寺領安堵状などがある。このうち、中世文書2点は粟生寺文書として資料編に掲載されている。
なお、通史編4には当家文書として五分市鋳物師の吹屋再興の資料が紹介されているが、該当資料は見当たらない。
否撮カードはない。
県史収載
資料編6 P.527-528 2点
県史以外の収載
『今立町誌』
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
G0452~G0453、G0457
関連資料一覧
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