間部家文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
F0041
資料群名
間部家文書
地域(近世,行政村,現在)
鯖江町,鯖江市
資料の年代
1707年(宝永4)~1868年(明治1)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
鯖江藩間部家は、18世紀に成立した北陸では小さい部類に属する藩で、5万石の領知であった。
藩祖間部詮房は6代将軍徳川家宣に仕え、さらに幼少の7代将軍家継を補佐した。詮房は家宣がまだ甲府城主であった時代から仕えて信任を厚くし、やがては側用人として実質上の幕政の中心となり、新井白石とともに諸改革の推進役となった。1710年(宝永7)には上野高崎5万石の城主となっている。しかし、家継の死後、その政治生命も失われ、16年(享保1)紀伊徳川家から入った8代将軍吉宗によって詮房は幕閣から追放され、翌17年高崎から越後最北端の村上に転封させられた。20年詮房はこの地で生涯を閉じ、浄念寺(現村上市寺町)に葬られた。
1720年(享保5)家督を相続した弟の詮言は、同時に鯖江への転封を命じられ、ここに鯖江藩が成立することになる。藩領は現在の鯖江市をはじめ、武生市・今立町・池田町・今庄町・朝日町・清水町・大野市・勝山市に散在しており、鯖江市の行政区域とは大きく異なっていた。陣屋が置かれた西鯖江の地名から西鯖江藩といわれることもある。
その後、9代詮道まで約150年間鯖江を領知してきたが、とくに7代詮勝は、寺社奉行・大坂城代・京都所司代と累進して1840年(天保11)に西丸老中となった。これにともない、無城から城主の大名に格上げされ、幕府から築城の許可がおりたが、城建設については縄張り図作成などにとどまり、実現にはいたらなかった。詮勝は、天保改革を進める水野忠邦を批判し43年(天保14)に老中を解任されるが、58年(安政5)再び登用され、大老井伊直弼の片腕として幕政に参画していくことになる。
間部家文書とは、鯖江市資料館に所蔵される鯖江藩政関係資料を総称したものである。この文書群は、もともと旧家老植田氏の管理のもとに、間部家の土蔵に保管されていたが、徐々に管理も不十分になってきたため、敗戦ころまでには惜陰小学校に移管されるに至った。1950年(昭和25)その一部が、鯖江町公民館(現鯖江市民会館)・萬慶寺・松阜神社に分割寄贈された。その後、78年鯖江市資料館の開設にともない、惜陰小学校に伝えられた分と鯖江市民会館に収められた分とがここに収蔵されるに至ったのである。
資料群の概要
撮影文書は約48点で、(1)口宣案、(2)将軍御内書、(3)領知宛行状・領知目録、(4)郷村高帳、(5)藩法および藩家臣団関係の資料、(6)老中日記などに大別される。
当藩では家臣の家督相続の際に通例「減知」を行い、その後務め向きに応じて「御加恩」が下されていたが、藩財政悪化にともなって「御加恩」が下されないことが多くなった。これに関する規定や、上級家臣の家格・昇進の扱いなどの資料が(5)に含まれている。
(6)は間部詮勝の西丸老中時代の日記である。これについては、上野(松平)秀治氏の「江戸幕府老中日記の性格について」(『芸林』28-4)、「江戸幕府老中の勤務実態について」(『幕府制度史の研究』)に詳細な研究がある。
なお、県史では撮影していないが、家臣団の問題について基礎資料となる「寛政改御家人帳」「小頭以下代数書」や、江戸詰の家老から国元に宛てた「従江戸到来御用状」、国元の公用日記の一部が『鯖江市史』『間部家文書』に収載されている。
否撮カードは約30点で、ほとんどが間部家の家督相続・養子縁組・隠居・元服などに関わる冊子である。
利用条件
 
県史収載
資料編5 P.194-199 3点 、 通史編3 P.210・268・407 通史編4、 P.9・15・85・86・88・287・390・400・428・475・491・493・498・530・535・538・543・585・593・606・632・633・645・701・702・861・863・871・872・913・920・925・927
県史以外の収載
『鯖江市史』 『間部家文書』
複製本番号
F0167~F0179
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。