管理セクション
福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
F0034
資料群名
西光寺文書
地域(近世,行政村,現在)
丹生郡杉本村,立待村杉本,鯖江市杉本町
資料の年代
1595年(文禄4)~1910年(明治43)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
西光寺は石田山西光寺と号し、浄土真宗本願寺派。本願寺五世綽如の三男周覚(吉田郡上志比村興行寺開祖)の長男永存を開祖とし、丹生北郡石田庄に草創された。本願寺七世存如の布教留錫の地であり、江戸時代は准連枝格の寺であった。(なお、資料編解題には周覚について本願寺六世功如の三男とあるが、正誤は不明。ただし、この所蔵者情報には当寺由緒書の記述を採用した。)
当寺五代真敬は、1575年(天正3)一揆平定のため織田信長が越前へ侵攻したとき、木ノ芽峠の鉢伏城に立てこもり、同年8月16日敗死した。95年(文禄4)、長谷川嘉竹(足羽郡東郷の長谷川秀一の父。なお、秀一は前年の8月に出兵先の朝鮮で死去。)から現在の寺地を寄進されて寺基を移し、その後諸役を免許された。
寺基がおかれた杉本村は935石余、はじめ福井藩領、1645年(正保2)吉江藩領となる。当寺の北、牛屋村に吉江藩の陣屋がおかれると、藩主松平昌親から保護を受けた。74年(延宝2)昌親は本藩である福井藩を継ぎ吉江を離れたが、その後も保護を受けた。寺内塔頭に蓮生寺・報恩寺、末寺に西蓮寺など7か寺があった。
当寺五代真敬は、1575年(天正3)一揆平定のため織田信長が越前へ侵攻したとき、木ノ芽峠の鉢伏城に立てこもり、同年8月16日敗死した。95年(文禄4)、長谷川嘉竹(足羽郡東郷の長谷川秀一の父。なお、秀一は前年の8月に出兵先の朝鮮で死去。)から現在の寺地を寄進されて寺基を移し、その後諸役を免許された。
寺基がおかれた杉本村は935石余、はじめ福井藩領、1645年(正保2)吉江藩領となる。当寺の北、牛屋村に吉江藩の陣屋がおかれると、藩主松平昌親から保護を受けた。74年(延宝2)昌親は本藩である福井藩を継ぎ吉江を離れたが、その後も保護を受けた。寺内塔頭に蓮生寺・報恩寺、末寺に西蓮寺など7か寺があった。
資料群の概要
当寺の調査点数は約450点、このうち約300点を撮影した。
1595年(文禄4)の長谷川嘉竹判物を初出とするが、このほかに年未詳の本願寺顕如消息写がある。資料は(1)一揆後、現在地を寄進した長谷川嘉竹関係資料、(2)吉江藩・福井藩関係資料、(3)寺院関係資料に分かれる。
このうち、(2)には昌親(昌明・吉品)時代のものが多く、藩主や家臣の書状類である。昌親は1667年(寛文7)には当寺へ仏壇を寄進するなど保護を与えている。一方、当寺は昌親の帰国の際に今庄宿まで御機嫌伺の使者を遣わしたり、年頭などにあたって祝儀品を贈ったりしている。
(3)は本願寺法主関係、本願寺坊官書状、西光寺関係、存如塚(存如上人墓)関係、末寺争論関係資料に分かれる。本願寺関係には顕如・准如消息のほか、坊官書状が80点余ある。坊官書状の内容は末寺にかかわること、本山への志納金や仏供料、年頭祝儀、巡讃御免に関するものである。末寺争論関係資料は当寺では「七難」とよんでおり、末寺との式法争論にかかわるものである。末寺は江戸時代はじめに末寺として寺号を得た真光寺など8か寺であったが、このうち専光寺が1727年(享保12)に真宗大谷派に改派離末し7か寺となった。これを契機に、当寺は35年に掟書を定めるなどして末寺7か寺の統制を行っている。その後、1830年(文政13)2月福井掛所から邪宗門改をきびしく申し渡されたのを機に、末寺7か寺と古法作法をめぐり争論となった。これは、同年9月徳法寺を除く末寺6か寺が誤り証文を差し出して終わったが、徳法寺との争いはその後も続き、翌31年10月幕府への提訴となった。これにともない、前年に誤り証文を提出していた6か寺についても争いが再燃することとなった。しかし、末寺側の主張は通らず、末寺側は非を認め、熟談となり訴えは取り下げられて、同年閏11月一件は落着した。この経過については、「出府日記」から詳しく知る事ができる。
このほか、鋳物師関係資料がある。1659年(万治2)、島村の庄兵衛によって2尺3寸の喚鐘が鋳造されている。この庄兵衛は南条郡島村の鋳物師と考えられ、南条郡島村における鋳物師の存在を裏付ける資料である。
否撮資料には本願寺諸役免許状や坊官書状、西光寺口上書などがある。
1595年(文禄4)の長谷川嘉竹判物を初出とするが、このほかに年未詳の本願寺顕如消息写がある。資料は(1)一揆後、現在地を寄進した長谷川嘉竹関係資料、(2)吉江藩・福井藩関係資料、(3)寺院関係資料に分かれる。
このうち、(2)には昌親(昌明・吉品)時代のものが多く、藩主や家臣の書状類である。昌親は1667年(寛文7)には当寺へ仏壇を寄進するなど保護を与えている。一方、当寺は昌親の帰国の際に今庄宿まで御機嫌伺の使者を遣わしたり、年頭などにあたって祝儀品を贈ったりしている。
(3)は本願寺法主関係、本願寺坊官書状、西光寺関係、存如塚(存如上人墓)関係、末寺争論関係資料に分かれる。本願寺関係には顕如・准如消息のほか、坊官書状が80点余ある。坊官書状の内容は末寺にかかわること、本山への志納金や仏供料、年頭祝儀、巡讃御免に関するものである。末寺争論関係資料は当寺では「七難」とよんでおり、末寺との式法争論にかかわるものである。末寺は江戸時代はじめに末寺として寺号を得た真光寺など8か寺であったが、このうち専光寺が1727年(享保12)に真宗大谷派に改派離末し7か寺となった。これを契機に、当寺は35年に掟書を定めるなどして末寺7か寺の統制を行っている。その後、1830年(文政13)2月福井掛所から邪宗門改をきびしく申し渡されたのを機に、末寺7か寺と古法作法をめぐり争論となった。これは、同年9月徳法寺を除く末寺6か寺が誤り証文を差し出して終わったが、徳法寺との争いはその後も続き、翌31年10月幕府への提訴となった。これにともない、前年に誤り証文を提出していた6か寺についても争いが再燃することとなった。しかし、末寺側の主張は通らず、末寺側は非を認め、熟談となり訴えは取り下げられて、同年閏11月一件は落着した。この経過については、「出府日記」から詳しく知る事ができる。
このほか、鋳物師関係資料がある。1659年(万治2)、島村の庄兵衛によって2尺3寸の喚鐘が鋳造されている。この庄兵衛は南条郡島村の鋳物師と考えられ、南条郡島村における鋳物師の存在を裏付ける資料である。
否撮資料には本願寺諸役免許状や坊官書状、西光寺口上書などがある。
県史収載
資料編5 P.78-89 15点、通史編2 P.775・P.777・P.1005・P.1008・P.1009、通史編3 P.25・P.74・P.79・P.139・P.672・P.674・P.690・P.703
県史以外の収載
『鯖江市史』『越前若狭古文書選』
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
F0143~F0150
関連資料一覧
縮小画像の表示/非表示
表示
件
表示順