誠照寺文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
F0022
資料群名
誠照寺文書
地域(近世,行政村,現在)
今立郡鯖江町寺町(今立郡西鯖江村),鯖江町下深江,鯖江市本町
資料の年代
1376年(天授2)~1897年(明治30)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
鯖江台地のほぼ中央に位置する真宗誠照寺派本山誠照寺(鯖江本山の通称を持ち、号は上野山)は、当初は真照寺といい、室町時代初期の開創といわれる。江戸時代始めから福井藩より寺領24石余を寄進され、1719年(享保4)、朱印状が下付されている。
鎌倉時代末のころ、越前の真言僧であった如道は、円善という親鸞面授の弟子で三河で活発な布教活動をし、越前にも教線を広げつつあった人物の感化を受け、越前での専修念仏の中心人物となった。やがて如道は秘事法門という新儀を強く主張し始め、本願寺から批判されるようになった。
一説には、如道の血脈は専照寺(福井市)に伝わり、如道の弟子の道性(親鸞の子とも、如道の子ともいわれる)は証誠寺(鯖江市)の開祖となり、道性の次男如覚は当寺の開祖となったという。
これら3寺は越前真宗四か本山のうちの3つであり、前記3人の師弟門徒を祖とするにちなみ、三門徒派(あるいは朝夕の勤行に親鸞の和讃を用いたので讃門徒派ともいう)と呼称される。当寺は同派の中の真宗誠照寺派本山として独立している。
如道の説いた秘事法門という新儀を継承した三門徒派は、本願寺派と激しく対立することとなり、朝倉氏とともに一向一揆に対抗した。当寺は、この経緯などにより、柴田勝家の保護を得て繁栄したが、柴田攻めを行った羽柴秀吉により焼かれ、ほどなく再興されたものの、末寺門徒の多くが離散し、さらに末坊の離反や他寺との本末争いで衰微した。1655年(明暦1)、福井藩重臣太田安房守資武の次男が当寺に入り、名を秀□と変え当寺を復興したといわれる。なお、江戸時代の本末制度下、当寺をはじめ三門徒派諸寺院は一宗一派としての独立を幕府から認められなかったが、本願寺・専修寺等の末寺になることを嫌い、天台宗門跡寺院の院家となる道を選んだ。それで、当寺は1693年(元禄6)に日光輪王寺の院家となった。
資料群の概要
撮影文書39点中、1369年(永和2)の「真宗血脈当年草創記」を除けば、16点が慶長期までの奉書・寄進状・免許状など書状類で2点が明治期のもの、残りは近世の住持書状・由緒関係を主にしたものである。
15世紀の奉書・寄進状類には、九条家の家司や鯖江荘(鎌倉期に摂関家領から九条家領となり、戦国末期に二条家領となった)荘官と思われる人物が登場し、真照寺から誠照寺に改称する当寺が鯖江荘の一部の寄進を受けていることを示す。16世紀には朝倉孝景の壁書、信長の朱印状の他、柴田攻めの秀吉軍に焼かれた当寺から逃亡した住持・末寺門徒らの帰還を認める秀吉・丹羽長秀・青木一矩らの安堵状・諸役免許状がある。17世紀初期には証誠寺が調停して当寺から離反していた末坊に出させた詫状がある。
近世のものの中には、江戸時代初頭から当寺は福井藩より24石余の寄進を受けていたが、1686年(貞享3)西鯖江村が幕府領になったため、あらためて朱印状の下付を願い出た「(誠照寺寺領朱印状頂戴方ニ付願書)」や、御中陰法要勤行報告の老中・若年寄の連署状がある。
明治期のものは、1697年(元禄10)の当寺境内并周辺の絵図の写しと二条家当主斉敬の和歌短冊のみである。
否撮文書は1点で、秀如筆の阿弥陀経である。
利用条件
 
県史収載
通史編3 P.627・629・633、資料編5 P.109-117 19点
県史以外の収載
『誠照寺史』『鯖江市史』『越前若狭古文書選』
複製本番号
F0100
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。