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福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
F0008
資料群名
松谷秀次郎家文書
地域(近世,行政村,現在)
足羽郡三尾野村出作,立待村三尾野出作,鯖江市三尾野出作町
資料の年代
1598年(慶長3)~1888年(明治21)
資料目録件数
45
組織歴および履歴
三尾野出作は、日野川右岸の荒地を三尾野村が開墾したところである。天王川・和田川の合流点にあたるため、古くから水害に悩まされていた。江戸時代を通じて福井藩領で、1598年(慶長3)の検地帳によれば、総石高214石余、うち田方86石余、下畠2石余、田畠荒125石余であった。当出作高は、すべて三尾野村藤兵衛の持高であったが、結城秀康の越前入国と同時に、1601年(慶長6)郡奉行吉田万右衛門は出作分の年貢諸役を免除した。したがって「慶長国絵図」の「三小野村」の高には加えられていない。18年(元和4)に定免2ツ6分が課せられ(ほかの諸役は免除)、「正保郷帳」からは三尾野村高に出作分が加えられた(同村の飛地とされ1村とはみなされていない)。
その後、藤兵衛家が潰れたため、藩は三尾野村に出作支配を命じたが同村は拒否し、みな荒所になった。さらに当家の祖である入村弥三右衛門に開方が命じられ、1739年(元文4)6月には弥三右衛門に「荒所開方出精」の褒美として金1両を藩から下付されている。三尾野村の質流高として弥三右衛門の出作支配となったらしい。出作分の実高は、検地による表高よりかなり少なかったらしく、弥三右衛門は藩から年60俵の下行米をうけてこの出作経営にあたっている。
1889年(明治22)の町村制施行の際、三尾野より分離され丹生郡立待村に編入された。
その後、藤兵衛家が潰れたため、藩は三尾野村に出作支配を命じたが同村は拒否し、みな荒所になった。さらに当家の祖である入村弥三右衛門に開方が命じられ、1739年(元文4)6月には弥三右衛門に「荒所開方出精」の褒美として金1両を藩から下付されている。三尾野村の質流高として弥三右衛門の出作支配となったらしい。出作分の実高は、検地による表高よりかなり少なかったらしく、弥三右衛門は藩から年60俵の下行米をうけてこの出作経営にあたっている。
1889年(明治22)の町村制施行の際、三尾野より分離され丹生郡立待村に編入された。
資料群の概要
当家文書は、(1)三尾野出作の高由来に関するもの、(2)用水・開田関係、(3)検地帳などの冊子類、(4)その他に大別できる。
(1)では、前述した由来を口上書・覚書・返答書という形で記しているものが多く残っている。(2)では、弥三右衛門の出作分開方に関して、川除普請や溜池築造、その際の拝借米などの願書類が、撮影されている。(3)では、前出の検地帳のほか、おろし地の書上帳などがある。(4)では資料編収載の「(豊臣秀頼黒印状)」(これは収集文書とみられる)などが撮影されている。
否撮カードは、用水・開田関係、金子借用証文、年貢納方通、村送り状などの一紙文書を中心とした14点である。
(1)では、前述した由来を口上書・覚書・返答書という形で記しているものが多く残っている。(2)では、弥三右衛門の出作分開方に関して、川除普請や溜池築造、その際の拝借米などの願書類が、撮影されている。(3)では、前出の検地帳のほか、おろし地の書上帳などがある。(4)では資料編収載の「(豊臣秀頼黒印状)」(これは収集文書とみられる)などが撮影されている。
否撮カードは、用水・開田関係、金子借用証文、年貢納方通、村送り状などの一紙文書を中心とした14点である。
県史収載
『福井県史 資料編5 中・近世三』P.191-194 2点
県史以外の収載
『福井県古文書所在調査報告書』
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
F0022~F0023
関連資料一覧
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