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福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
E0122
資料群名
樫尾吉右衛門家文書
地域(近世,行政村,現在)
南条郡松森村,神山村松森,越前市松森町(武生市)
資料の年代
1681年(天和1)~1947年(昭和22)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
松森村は日野川中流域に広がる武生盆地の南部、日野川左岸に位置し、北陸街道が通る。福井藩領で、「元禄郷帳」「天保郷帳」ともに村高は468石余。
松森村をはじめとする13か村(松森・常久・妙法寺・千福・高瀬・新・印内・平出・新保・府中分手作新田・下太田・上太田・北山)を灌漑区域とする亀用水(亀淵用水)は、延宝年間(1673-81)からとされる行松村地内での大塩川からの取水、明和年間(1764-72)からとされる平吹村大口用水からの引水、井部用水からの引水によって成り立っていたという(00004「亀用水御旧記写」)。松森村庄屋は、1789年(寛政元)以降、「井元」と称され、常久村庄屋とともに「井番」「井役」とされた時期もあって、亀用水組合の筆頭としての役割を果たしていた。
当家は、少なくとも文政期には松森村の庄屋を勤めていた。
松森村をはじめとする13か村(松森・常久・妙法寺・千福・高瀬・新・印内・平出・新保・府中分手作新田・下太田・上太田・北山)を灌漑区域とする亀用水(亀淵用水)は、延宝年間(1673-81)からとされる行松村地内での大塩川からの取水、明和年間(1764-72)からとされる平吹村大口用水からの引水、井部用水からの引水によって成り立っていたという(00004「亀用水御旧記写」)。松森村庄屋は、1789年(寛政元)以降、「井元」と称され、常久村庄屋とともに「井番」「井役」とされた時期もあって、亀用水組合の筆頭としての役割を果たしていた。
当家は、少なくとも文政期には松森村の庄屋を勤めていた。
資料群の概要
撮影資料141点はすべて、亀用水関連の争論願書、証文、訴訟資料、規定書、およびそれらの記録、絵図類(00100~00140)である。
このうち最も古いものは、1681年(延宝9)の四郎丸村田地の亀用水江筋への振替えの際の証文である(00002)。四郎丸村には亀ケ淵という地名も残っており、当初は行松村より上流の四郎丸村内に取水口があったと考えられる。証文の宛名は松森村・常久村となっており、この2村が亀用水の初期の段階から関わっていたことがわかる。
用水をめぐる争論では、取水口の行松村での用水普請や洪水のために新規に取締り方を定めたもの(00005・00006・00010・00011・000014・00017・00131)、そして幕末では取水口は、行松村に隣接する上流の下平吹村に移っており、洪水後の新規堰に関するもの(00024・000025)、下平吹村の古田・新田開発にかかわるもの(00015・00016・00018・00022・00097)などがある。
明治10年代に入ると、下平吹村の取水口の位置や仮堰場所の返還をめぐって下平吹村と亀用水組合の間で連続して訴訟が起こっていた(00027~00065)。
否撮カードはない。
このうち最も古いものは、1681年(延宝9)の四郎丸村田地の亀用水江筋への振替えの際の証文である(00002)。四郎丸村には亀ケ淵という地名も残っており、当初は行松村より上流の四郎丸村内に取水口があったと考えられる。証文の宛名は松森村・常久村となっており、この2村が亀用水の初期の段階から関わっていたことがわかる。
用水をめぐる争論では、取水口の行松村での用水普請や洪水のために新規に取締り方を定めたもの(00005・00006・00010・00011・000014・00017・00131)、そして幕末では取水口は、行松村に隣接する上流の下平吹村に移っており、洪水後の新規堰に関するもの(00024・000025)、下平吹村の古田・新田開発にかかわるもの(00015・00016・00018・00022・00097)などがある。
明治10年代に入ると、下平吹村の取水口の位置や仮堰場所の返還をめぐって下平吹村と亀用水組合の間で連続して訴訟が起こっていた(00027~00065)。
否撮カードはない。
県史収載
 
県史以外の収載
 
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
E1030~E1038
関連資料一覧
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