管理セクション
福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
E0053
資料群名
辻川利雄家文書
地域(近世,行政村,現在)
南条郡北府村,武生町北府,越前市北府(武生市)
資料の年代
1573年(天正1)~1910年(明治43)
資料目録件数
241
組織歴および履歴
北府村は日野川中流域左岸に位置し、南北に北陸街道が縦貫して、村の南方中央部は府中町内北府町と隣接している。江戸時代を通じて福井藩府中本多家領で村高は「正保郷帳」によれば610石余だったが、盛んに新田開発が行われ、1687年(貞享4)以降の記録には、石高182石余の柳原新田を始めとして255石余の新田高があり、1833年(天保4)の郷帳でも合わせて865石余となっている。
当家は代々次右衛門を名乗り、苗字を許されていたようである。また、早くから庄屋等の村役を務めていた。
当家は代々次右衛門を名乗り、苗字を許されていたようである。また、早くから庄屋等の村役を務めていた。
資料群の概要
当家では資料編に収載された中世文書5点を含む約850点を調査し、約230点を撮影した。
中世文書5点はいずれも織田劒神社に関するものであるが、当家への伝来経過は不明である。
近世文書は(1)府中本多家領の覚書、(2)土地関係(新田を含む)、(3)貢租・救恤関係、(4)村方一般(扱い文書が多い)、(5)山論関係、(6)金融関係、(7)用水関係などがあり、他に売券・借用文書が58点ある。
(1)には年不詳ながら、県史収載の覚書があり、本多氏の支配内容をうかがい知ることができるものとして貴重である。
(2)では1678年(延宝6)の柳原新田の水帳があり、村高の3割強にもあたる、大規模な新田開発の例として注目される。また、近接した福井藩の鷹場法度も2点ある。
(3)には1762年(宝暦12)を初出として、文化年間以降の年貢減免、借銀願が多く、とくに1807年(文化4)の大洪水で日野川が氾濫し、広範囲が荒地となった様子が知られる。
(5)では西方の山間部にある小野・勝蓮花両村にまたがる山を北府村・岡本村など10か村が入会山として利用していたことから、1773年(安永2)-78年(安永7)にわたって続いた争論を中心に数点がある。
(6)は年代不詳の3点を含め、1806年(文化3)以降の頼母子講に関する15点がある。寺院の修築資金とされたものが多いが、町奉行に口数の減少を願い出ている資料もあることから、本多家領内で実施されたものもあると思われる。
(7)については、川上の松森村から取水し、4か村用水と称して当村の他に上市村・平出村・家久村が利用していた。上流の行松村や、同じく上流で日野川右岸にある向新保村と取水に関する争論があったことや、南に隣接する北府町と川除普請に関わる取り決めやそれに関する争論があったことを示す文書がある。これに明治以降の用水組合関係の4点を加えると40点余りにのぼる。
明治以降の資料は前述した4点の他、南条郡会関係資料が2点である。なお、それ以外の記録として、『越前国古城跡之記』と、丸岡藩主本多重益の除封に至るまでの顛末を描いた『越前丸岡騒動愚覚記』がある。
否撮カードは約620点。その内訳は420点余りが借用証文や質入れ証文、明治以降の盛帳が50点余り、あとは家普請の入用帳などが多い。
中世文書5点はいずれも織田劒神社に関するものであるが、当家への伝来経過は不明である。
近世文書は(1)府中本多家領の覚書、(2)土地関係(新田を含む)、(3)貢租・救恤関係、(4)村方一般(扱い文書が多い)、(5)山論関係、(6)金融関係、(7)用水関係などがあり、他に売券・借用文書が58点ある。
(1)には年不詳ながら、県史収載の覚書があり、本多氏の支配内容をうかがい知ることができるものとして貴重である。
(2)では1678年(延宝6)の柳原新田の水帳があり、村高の3割強にもあたる、大規模な新田開発の例として注目される。また、近接した福井藩の鷹場法度も2点ある。
(3)には1762年(宝暦12)を初出として、文化年間以降の年貢減免、借銀願が多く、とくに1807年(文化4)の大洪水で日野川が氾濫し、広範囲が荒地となった様子が知られる。
(5)では西方の山間部にある小野・勝蓮花両村にまたがる山を北府村・岡本村など10か村が入会山として利用していたことから、1773年(安永2)-78年(安永7)にわたって続いた争論を中心に数点がある。
(6)は年代不詳の3点を含め、1806年(文化3)以降の頼母子講に関する15点がある。寺院の修築資金とされたものが多いが、町奉行に口数の減少を願い出ている資料もあることから、本多家領内で実施されたものもあると思われる。
(7)については、川上の松森村から取水し、4か村用水と称して当村の他に上市村・平出村・家久村が利用していた。上流の行松村や、同じく上流で日野川右岸にある向新保村と取水に関する争論があったことや、南に隣接する北府町と川除普請に関わる取り決めやそれに関する争論があったことを示す文書がある。これに明治以降の用水組合関係の4点を加えると40点余りにのぼる。
明治以降の資料は前述した4点の他、南条郡会関係資料が2点である。なお、それ以外の記録として、『越前国古城跡之記』と、丸岡藩主本多重益の除封に至るまでの顛末を描いた『越前丸岡騒動愚覚記』がある。
否撮カードは約620点。その内訳は420点余りが借用証文や質入れ証文、明治以降の盛帳が50点余り、あとは家普請の入用帳などが多い。
県史収載
資料編6 P.203-257 10点、通史編3 P.166・P.491 通史編4 P.298
県史以外の収載
『武生市史』、 『武生市古文書目録』、長谷川裕子「江戸時代初期の越前に現れた「領」-結城秀康・松平忠直の領国支配機構-」(『福井大学教育地域科学部紀要』4 2014年)
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
E0409~E0419
関連資料一覧
縮小画像の表示/非表示
表示
件
表示順