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福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
E0047
資料群名
浅井征三家文書
地域(近世,行政村,現在)
南条郡府中柳町,武生町大山,越前市あおば町(武生市)
資料の年代
1678年(延宝6)~1885年(明治18)
資料目録件数
418
組織歴および履歴
柳町は府中市街の南部、北陸街道沿いの町で、上市町の北、京町の南に位置する。1851年(嘉永4)の家数は本家53軒、地借8軒、門前31軒、歩行1軒(『南条郡誌』)。打刃物に携わる者が多かったので久保町とともに鍛冶町とも呼ばれた。1874年(明治7)大山町と改称、1974年(昭和49)新設のあおば町の一部となる。
浅井家は近世末期に府中本多家の御用達、福井産物会所元締役にもなった打刃物問屋である。1678年(延宝6)頃は鍛冶屋権兵衛と称し、鎌鍛冶を業としながら家屋敷を買い集め、明和年間(1764-72)には仕足屋(シダシヤ)権兵衛と改称して、鎌の製造のかたわら鎌の販売を手広く行い、北陸一円はもとより、美濃・尾張・伊勢方面にも販路を広め、また、鍛冶株仲間年行司、打刃物卸問屋仲間惣代の役なども務め、文政年間(1818-30)には本多家から苗字帯刀を許されている。1852年(嘉永5)の府中大火の際は類焼を免れ、居宅が仮本陣となっている。なお、1875年(明治8)の「明治八年越前国武生市街分間図」には現住所に当たる部分に「浅井謙蔵」とあり、居住地が移動していないことが分かる。
浅井家は近世末期に府中本多家の御用達、福井産物会所元締役にもなった打刃物問屋である。1678年(延宝6)頃は鍛冶屋権兵衛と称し、鎌鍛冶を業としながら家屋敷を買い集め、明和年間(1764-72)には仕足屋(シダシヤ)権兵衛と改称して、鎌の製造のかたわら鎌の販売を手広く行い、北陸一円はもとより、美濃・尾張・伊勢方面にも販路を広め、また、鍛冶株仲間年行司、打刃物卸問屋仲間惣代の役なども務め、文政年間(1818-30)には本多家から苗字帯刀を許されている。1852年(嘉永5)の府中大火の際は類焼を免れ、居宅が仮本陣となっている。なお、1875年(明治8)の「明治八年越前国武生市街分間図」には現住所に当たる部分に「浅井謙蔵」とあり、居住地が移動していないことが分かる。
資料群の概要
当家の撮影文書約420点のうち、おもなものは(1)打刃物関係と(2)御用金関係である。
(1)では、1678年(延宝6)の鍛治屋権兵衛の家屋敷買受証文をはじめとして、鎌代金の受取状、鎌売場の譲受状、鉄・鋼など原材料の購入・輸送関係文書、打刃物問屋仲間関係文書などがあり、なかでも商品棚卸帳は1855年(安政2)から76年(明治9)まで20年分がそろっている(70・71年分欠)。ただし、この棚卸しはたとえば安政3年「永宝棚卸仮帳」のように「福寿録」として貸金の差引金約2,043両余についてのみ記されているものや、元治2年「永宝棚卸仕上帳」のように「店土蔵在代品物」以下打刃物関係6,467両余についてのみ記されたものもあり、年度により記載内容にばらつきがある。
なお、1762年(宝暦12)-1870年(明治3)の借用証文類約250点が撮影されており、分量的には過半を占めているが、棚卸帳などからみても、貸金業の比重がかなり高かったことが分かる。
(2)は福井藩または本多家に対する、宝暦期(1751-64)から幕末にかけてのもので、とくに1805年(文化2)-67年(慶応3)の「記録」(2冊)は浅井家の御用金の記録であり、御用金が課せられる様子がよくわかる資料である。
たとえば、1860年(万延1)に、本多家殿様の参府費用3,000両が当家を含む商人10人に課せられた際は、その理由が参府手当では「些か指支えがあるので、蝦夷地開墾手伝いとして献金」するよう家老から内意がある。そして、当申年1,000両、翌酉年1,000両、6年後の寅年に残り1,000両を献金する願書が10人連名で出されるが、このとき先年海防御用金として酉年まで調達されていた1,000両が10家に返されて、これがそっくり献金される。この褒美として当家は5人扶持が10人扶持に増やされている。翌翌戌年正月、酉年分の1,000両を上納すると、今度は「残り1,000両を寅年に上納することになっているが、今般御参府につき、当2月中に上納するよう仰せ付け」られる。勿論、一同当惑して「近来下々不融通の時節柄に付き、相調兼」と断るのであるが、さらに「当戌年より寅年までの5か年賦無利息で、毎年10月切200両ずつ上納」するよう命じられる。つまり「3,000両分は皆納で、1,000両は借用」したことになったのである。強引な本多家の借金の仕方に、幕末期の窮乏の様子をうかがうことができる。
ところで、本多副元は1864年(元治1)藩主茂昭の名代として京都の警衛を命じられ禁門の変直後の京都にはいり、「長州出兵」のあと、65年(慶応1)の「再征」には再び茂昭名代として大坂に派遣され、さらにそのあと68年(慶応4)には、やはり茂昭名代として越後口へ派遣されるなど、ほとんど出ずっぱりとなる。それだけ費用も嵩んだとおもわれるが、この時期についての当家の記録がないのが残念である。なお当家は、70年(明治3)の武生騒動の際の襲撃対象にはなっていない。
74年(明治7)の当主浅井謙蔵は第7大区のうち11-17小区(武生市街部)を担当する副区長になる。明治期の資料は少ないが、「町岡地合併願図」は74年の町名改正後の武生市街図である。「町岡」の意がつかめないが、恐らく市街に隣接した村地籍のうち市街化した部分を指すとおもわれる。関係資料はないが、「町岡地所」が図示されているので、これだけでも武生の市街化について考える上で重要な資料といえよう。
否撮文書は借用状など4点のみ。
(1)では、1678年(延宝6)の鍛治屋権兵衛の家屋敷買受証文をはじめとして、鎌代金の受取状、鎌売場の譲受状、鉄・鋼など原材料の購入・輸送関係文書、打刃物問屋仲間関係文書などがあり、なかでも商品棚卸帳は1855年(安政2)から76年(明治9)まで20年分がそろっている(70・71年分欠)。ただし、この棚卸しはたとえば安政3年「永宝棚卸仮帳」のように「福寿録」として貸金の差引金約2,043両余についてのみ記されているものや、元治2年「永宝棚卸仕上帳」のように「店土蔵在代品物」以下打刃物関係6,467両余についてのみ記されたものもあり、年度により記載内容にばらつきがある。
なお、1762年(宝暦12)-1870年(明治3)の借用証文類約250点が撮影されており、分量的には過半を占めているが、棚卸帳などからみても、貸金業の比重がかなり高かったことが分かる。
(2)は福井藩または本多家に対する、宝暦期(1751-64)から幕末にかけてのもので、とくに1805年(文化2)-67年(慶応3)の「記録」(2冊)は浅井家の御用金の記録であり、御用金が課せられる様子がよくわかる資料である。
たとえば、1860年(万延1)に、本多家殿様の参府費用3,000両が当家を含む商人10人に課せられた際は、その理由が参府手当では「些か指支えがあるので、蝦夷地開墾手伝いとして献金」するよう家老から内意がある。そして、当申年1,000両、翌酉年1,000両、6年後の寅年に残り1,000両を献金する願書が10人連名で出されるが、このとき先年海防御用金として酉年まで調達されていた1,000両が10家に返されて、これがそっくり献金される。この褒美として当家は5人扶持が10人扶持に増やされている。翌翌戌年正月、酉年分の1,000両を上納すると、今度は「残り1,000両を寅年に上納することになっているが、今般御参府につき、当2月中に上納するよう仰せ付け」られる。勿論、一同当惑して「近来下々不融通の時節柄に付き、相調兼」と断るのであるが、さらに「当戌年より寅年までの5か年賦無利息で、毎年10月切200両ずつ上納」するよう命じられる。つまり「3,000両分は皆納で、1,000両は借用」したことになったのである。強引な本多家の借金の仕方に、幕末期の窮乏の様子をうかがうことができる。
ところで、本多副元は1864年(元治1)藩主茂昭の名代として京都の警衛を命じられ禁門の変直後の京都にはいり、「長州出兵」のあと、65年(慶応1)の「再征」には再び茂昭名代として大坂に派遣され、さらにそのあと68年(慶応4)には、やはり茂昭名代として越後口へ派遣されるなど、ほとんど出ずっぱりとなる。それだけ費用も嵩んだとおもわれるが、この時期についての当家の記録がないのが残念である。なお当家は、70年(明治3)の武生騒動の際の襲撃対象にはなっていない。
74年(明治7)の当主浅井謙蔵は第7大区のうち11-17小区(武生市街部)を担当する副区長になる。明治期の資料は少ないが、「町岡地合併願図」は74年の町名改正後の武生市街図である。「町岡」の意がつかめないが、恐らく市街に隣接した村地籍のうち市街化した部分を指すとおもわれる。関係資料はないが、「町岡地所」が図示されているので、これだけでも武生の市街化について考える上で重要な資料といえよう。
否撮文書は借用状など4点のみ。
県史収載
資料編6 P.56-61 7点、通史編4 P.369-370
県史以外の収載
『武生市史』
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
E0461~E0470
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