岡部忠勝家文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
E0037
資料群名
岡部忠勝家文書
地域(近世,行政村,現在)
南条郡府中町,武生町,越前市神明町(武生市)
資料の年代
1552年(天文21)~1873年(明治6)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
岡部家は同家由緒書によれば、武蔵国矢嶋郡下海辺岡部(埼玉県大里郡岡部町)に代々居住し、上杉氏に属していたが、1603年(慶長8)府中本多氏の家臣となり、越前に来たという。府中番頭役七人衆の一人として、本多家でも上席クラスの家臣であった。なお当家資料の1851年(嘉永4)「府中全町家順記」(武生史談会版)に「上馬場西側南より」の4軒目に「御目附 岡部佐左エ門」とあるのが当家で、この位置はほぼ現住所に当たる。
資料群の概要
当家文書は3点の中世文書と、26点の近世文書からなる。中世文書は武蔵在住時代のものであるが、戦国時代末には後北条氏に属していたことがわかる。
近世文書は本多家の由緒書や給帳・典礼関係資料に特色がある。なかでも「要用留抜書并私録」は、当家五代忠延(安政5死亡)のものとおもわれる、安永期末から安政3年に至る約80年間の職務上の要用留であり、貴重な情報が多く含まれているが、複製本は字が小さくほとんど読めないのが残念である。このほか、1852年(嘉永5)の府中大火記録がある。
なお、岡部徳蔵(1871年7月半と改名、当家六代忠鏡の弟?)に関する明治初年の資料が数点ある。「元陪臣 乾」(松平文庫)によれば、彼は、1869年11月に福井藩から卒族に申付けられ、米36俵を給されて(70年1月)、藩兵となり、常備4番隊押伍(軍曹)になる(70年12月)。この間武生騒動があり、武生士卒の福井移住が命じられる。彼も、福井の元鷹部屋96坪を与えられたが(71年4月)、同日付けで「東京増詰」を命じられ上京したため福井への移住は取消されている。のち藩兵解体(71年10月)により武生に帰っている(71年11月)。その彼が、当家文書「(邏卒任命書)」によれば、72年3月16日に敦賀県によって「当分邏卒雇」を申付けられている。護法一揆の対応のため臨時に邏卒に採用されたのであろう。ところで『武生市史』(人物・系譜・金石文編)には、第4高等学校教授・姫路病院長などを務めた当家七代忠の記事があるが、1898年(明治31)に「たまたま父の病気に帰省し、それに感染した為、年若くして死去した」とある。この父とは当家六代忠鏡のことで、当家資料でも1864年(元治1)京都警衛にあたった本多副元の近習として京都日記「雑書」を残しているが、この人物に関する維新期の資料がないのが残念である。
否撮カードはない。
利用条件
 
県史収載
資料編6 P.98 3点
県史以外の収載
『武生市史』『武生市古文書目録』『武生越前府中本多家家臣録』
複製本番号
E0309~E0312
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。