龍泉寺文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
E0036
資料群名
龍泉寺文書
地域(近世,行政村,現在)
南条郡府中町,武生町,越前市深草(武生市)
資料の年代
1429年(永享1)~1882年(明治15)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
龍泉寺は、曹洞宗寺院で太平山と号する。1368年(応安1)能登総持寺2世峨山韶磧の弟子通幻寂霊を開山に招き、藤原義清を根本檀越として創建された。通幻の門下からは天真自性(今庄町の慈眼寺開山)など十哲が輩出し、その末流は全国に及んだ。1391年(明徳2)通幻の死後、これら門流の僧による輪番制となり、1716年(享保1)まで続いた。翌17年から独住制となった。
江戸時代には府中本多氏の菩提寺となった。寺領は、1615年(慶長20)本多富正から丹生郡上大田村内に50石を寄進されたのに始まり、翌16年(元和2)松平忠直からあらためて上大田村内の50石が寄進された。その後、24年(寛永1)松平忠昌からあらたに丹生郡岩長村内の13石が加えられ、合わせて63石となった。結城秀康画像や徳川家康・秀忠・結城秀康の木像を有し、寺領63石はその霊供米とされた。
資料群の概要
調査点数は約80点、このうち67点を撮影した。
1428年(正長2)の連署状を初出とするが、残りのほとんどは江戸時代のものである。資料は禁制(青木秀以、本多内蔵助、松平昌親)、由緒、寺院帳、過去帳、寺領、住持職、祠堂金などに関するものである。このうち、寺領に関するものが多い。
当初の寺領50石は、秀康の死後龍泉寺が秀康像を安置したため、本多富正が自らの給知であった上太田村内で藩主忠直の許しを得て1615年(慶長20)に寄附したものである。このとき、寺領50石は「高外除地」となり、正保郷帳における上太田村の村高は710石余である(天保郷帳では760石余)。こののち、34年(寛永11)の家光上洛時に、忠昌に供奉した富正が家康・秀忠・秀康の木像を作ることを幕府に願い出て許され、龍泉寺に安置した。24年に加えられた13石と合わせた寺領63石は、この三像の永代供養料とされた。
上大田村は、1686年(貞享3)幕府領、97年(元禄10)高森藩領、1705年(宝永2)幕府領、64年(明和1)西尾藩領と変遷し、福井藩(府中領)支配から離れたが寺領50石分は認められた。しかし、福井藩の支配を離れたことにより、上大田村からの収納は滞るようになり、寺側は1729年(享保14)、36年(元文1)、63年(宝暦13)に訴えを起こした。63年の訴訟は当初本保役所になされたが解決せず、翌64年幕府寺社奉行所への出訴となった。これは時間がかかり、72年(安永1)上大田村(当時西尾藩領)と福井藩領糺村・芝原村内との村替が命じられ(なお、これに福井藩が故障を申し出たため、翌73年に島寺村・片山村内との村替となる)、74年には上大田村は毎年米35俵を寺に納める旨の一札を提出している(なお、1729年にもこの旨の一札を差し出している)。
ところで、残りの寺領岩長村分の13石についてであるが、忠昌寄進状に「丹生郡岩長村之内」とある。明和の寺領訴訟に関する「家譜」の記事に、「当時龍泉寺門前ニ而岩長町与唱拾三石之分所為仕、右岩永村ハ越前国南条郡之内ニ而今以領内ニ而御座候、然処代々之判物丹生郡与有之儀いケ様之訳ニ御座候哉相知不申候」とあること、1833年(天保3)の寺領高帳に南条郡府中岩永村とあり、この岩永村について「当時龍泉寺門前と唱申候」と書き加えられていることなどからみて、この岩長村は丹生郡岩永村ではないと考えられる。71年(明治4)の龍泉寺門前の地子米は約4石6斗であった。
否撮資料は、過去帳、年忌書上や開山忌に関するものなどである。
利用条件
 
県史収載
資料編6 P.358-359 4点、通史編2 P.989・P.990、通史編3 P.635・P.658
県史以外の収載
『武生市史』 『武生市古文書目録』 『福井県古文書所在調査報告書』
複製本番号
E0354~E0357
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。