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福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
E0003
資料群名
三田村弥兵衛家文書
地域(近世,行政村,現在)
今立郡南小山村,味真野村南小山,越前市南小山町(武生市)
資料の年代
1573年(天正1)~1875年(明治8)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
南小山村は味真野扇状地の扇端鞍谷川筋に位置する。慶長の国絵図では「小山両村」として高765石余とあるが、正保郷帳では北小山村と南尾(小)山村に分かれる。南小山村の村高は265石余で、江戸時代を通じて福井藩領。
三田村家は弥兵衛を称し、当村の長百姓や庄屋を務めた。1781年(天明1)の持ち高は89石余で、その後所持高を減らすも1869年(明治2)には79石余を持つ。なお、1658年(万治1)の水帳には弥兵衛なる人物はいない。当家文書中に庄屋弥兵衛を最初にみるのは1732年(享保17)である。
三田村家は弥兵衛を称し、当村の長百姓や庄屋を務めた。1781年(天明1)の持ち高は89石余で、その後所持高を減らすも1869年(明治2)には79石余を持つ。なお、1658年(万治1)の水帳には弥兵衛なる人物はいない。当家文書中に庄屋弥兵衛を最初にみるのは1732年(享保17)である。
資料群の概要
約330点を調査し、このうち256点を撮影した。1573年(天正1)8月の織田信長朱印状写を初出とする。朝倉氏を滅ぼした信長は同年8月末から10月にかけて越前の武士の本知行地を安堵しており、この朱印状は三田村三郎五郎に125石を安堵したものである。
近世文書は水帳などの土地関係、売券・質地証文類、人別帳・宗門改帳、郡方・代官方盛銀米帳や綿麻代夫米山手割帳などの年貢関係、用水・堤普請や用水争論、減免や拝借米願書類、さんばく山関係、御用金関係などである。
明治期の資料は、北・南小山村の合併に関するものやおろし帳である。
当村の年貢率は5ツ2分5厘(1775年)と越前では高いほうである。この理由について、当村は「柴山多ク持添有之故隣村ニ勝レ町反つまり各別ニ御高免」としている。このように「柴山御見込免」であったが、その柴山も金屋村忠兵衛へ越山となり、「山之祐徳」は金屋村へ移ったため、高免ゆえに村は困窮したようである。こののち、忠兵衛と北小山村が越石をめぐり江戸公訴となり(伊吹長兵衛家文書参照)、忠兵衛は敗訴し、金屋村越石103石余と越山は福井藩取上げとなり、越山は北小山村預け山となったという。この越山をめぐって、土元である南小山村は下げ渡しを福井藩に再三求めたが聞き入れられず、これに関して下行米などを得ている。
否撮資料のうち、江戸期のものには人足帳や作難帳、おろし算用帳のほか、用水関係がある。明治期のものには山税割元帳や租税関係、邨費割帳、収穫米割帳などがある。
近世文書は水帳などの土地関係、売券・質地証文類、人別帳・宗門改帳、郡方・代官方盛銀米帳や綿麻代夫米山手割帳などの年貢関係、用水・堤普請や用水争論、減免や拝借米願書類、さんばく山関係、御用金関係などである。
明治期の資料は、北・南小山村の合併に関するものやおろし帳である。
当村の年貢率は5ツ2分5厘(1775年)と越前では高いほうである。この理由について、当村は「柴山多ク持添有之故隣村ニ勝レ町反つまり各別ニ御高免」としている。このように「柴山御見込免」であったが、その柴山も金屋村忠兵衛へ越山となり、「山之祐徳」は金屋村へ移ったため、高免ゆえに村は困窮したようである。こののち、忠兵衛と北小山村が越石をめぐり江戸公訴となり(伊吹長兵衛家文書参照)、忠兵衛は敗訴し、金屋村越石103石余と越山は福井藩取上げとなり、越山は北小山村預け山となったという。この越山をめぐって、土元である南小山村は下げ渡しを福井藩に再三求めたが聞き入れられず、これに関して下行米などを得ている。
否撮資料のうち、江戸期のものには人足帳や作難帳、おろし算用帳のほか、用水関係がある。明治期のものには山税割元帳や租税関係、邨費割帳、収穫米割帳などがある。
県史収載
資料編6 P.328 1点、通史編4 P.229
県史以外の収載
『武生市史』 『武生市古文書目録』
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
E0036~E0045
関連資料一覧
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