賀茂神社文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
D0042
資料群名
賀茂神社文書
地域(近世,行政村,現在)
丹生郡大森村,志津村大森,福井市大森町(清水町)
資料の年代
1535年(天文4)~1903年(明治36)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
丹生山地内の北東部にある大森盆地内に大森村がある。志津川・滝波川が合流するあたりでもあり、日野川と通じる河川交通が利用されたと思われる。当村は古代の賀茂郷、中世の志津庄の中心地であったかと思われ、付近には9世紀を中心とする山中寺院の明寺山廃寺、10世紀を中心とする集落遺跡で大規模な掘立柱建物遺構・習書木簡・青磁・施釉陶器等を出土した大森鐘島遺跡などがある。
当社は祭神が別雷神等で、旧郷社。「延喜式」神名帳収載の丹生郡下の雷神社に比定される。当社は賀茂郷、志津庄の総鎮守として、また江戸時代以降は近郷7又は9か村から厚い崇敬を集めた。志津庄は京都下鴨社の庄園であり、1830年(文政13)「書上(神社御改ニ付雷神社ノ指出書上)」に当社の祭神は賀茂下上皇大神で元正天皇養老年中の鎮座とあるように、当社の創始に京都の両賀茂社(上賀茂社・下鴨社)が深くかかわっている。
ちなみに、1903年(明治36)書写の「加茂神社及氏子内神社明細帳」には、717年(養老1)元正天皇のころ現今神職広部繁の祖宗広部民部が山城国鎮座賀茂両宮を遷し云々とあり、当社神主の古い由緒にも触れている。
当社は、江戸時代においても広大な16町7反余の社地と6反余の境内を有した。大森の名はかつてあった老大木からなる鬱蒼とした当社社地の社叢に由来するという。
当社社地は入会地として地籍区分をしなかったが、1884年(明治17)その一部が大森・山内・笹谷(篠谷)・滝波の4か村に分割され、さらに戦後の農地改革で戦災罹災者対象の開拓村建設用地としてほとんど提供され、当社と神官宅のある境内のみが残った。
境内地は賀茂とも加茂とも表記したが、1947年(昭和22)から加茂に統一したという。
当社本殿厨子扉の内外等に福井藩主より拝領の葵紋があり、藩主が代替わり時に祈願所大谷寺への社参の折、当社へも参拝したことによるものという。
当社には、今に伝わる4年ごとの豊作予祝の睦月神事(国重要無形文化財)がある。
大森村ははじめ福井藩領、1645年(正保2)松岡藩領、1722年(享保7)再び福井藩領となった。959石余。
資料群の概要
中世のものは、朝倉孝景や丹羽長秀の当社境内に掲げた禁制高札だが、長秀のものは、風化で墨痕が剥落しほとんど判読できない。
近世のものは、当社社殿建築に関わった大工藤左衛門関係、名跡相続・不足銀・不払作料銭等に関する村方文書、神道裁許状関係、先述の当社指出などである。神道裁許状関係は、1686年(貞享3)以降1854年(嘉永7)まで7通あるが、当社祠官・神主の風折烏帽子狩衣許可についてが6通で、差出人は神道界の首長として神祇管領長上(じんぎかんれいちょうじょう)を自称した卜部(吉田)氏である。
近代のものは、先述の明細帳と、1870年(明治3)「由緒書(賀茂下上皇太神由緒書)」である。
否撮文書は3点。年不詳の朝鮮国平壌地図、1871年(明治4)長帳「明神様御払方下帳」、40年(天保11)-70年(明治3)の質物・売券を書留めた冊子「記録」がある。
『清水町史補遺』(1980年)の当社文書目録を見ると、調査カ-ド中にはないもの、逆に目録中にはないものが認められる。
利用条件
 
県史収載
 
県史以外の収載
『福井県丹生郡誌』 『清水町史』
複製本番号
D0327
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。