管理セクション
福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
D0026
資料群名
内藤武左衛門家文書
地域(近世,行政村,現在)
丹生郡天王村,朝日村天王,越前町天王(朝日町)
資料の年代
1405年(応永12)~1873年(明治6)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
天王村は丹生山地と東方の平野部との境、天王川左岸に位置する。正保郷帳によると、村高は479石余であったが、元禄郷帳以降は宝泉寺・木津見・天屋の3か村が分離したため294石余(天王社領23石余をふくむ)となった。なお、木津見・天屋の両村は宝泉寺村の枝郷であった。
天王村ははじめ福井藩領、1624年(寛永1)以降幸若領200石(伊右衛門家か)と分郷となる。86年(貞享3)、福井藩領分は幕府領となる。その後、幸若伊右衛門領は上知となり(正徳2年ころか)、天王社領を除く271石余はすべて幕府領となる。さらに、1764年(明和1)三河西尾藩領となり幕末にいたる。
ここで元禄郷帳から分村となった宝泉寺村(木津見・天屋両村をふくむ)の支配の変遷についてふれる。まず、上知となった幸若伊右衛門領200石の内訳は、天王村分15.12石、残りが宝泉寺村分(枝郷2村をふくむ)184.88石であった。上知となった200石のうち、宝泉寺村内の100石は新たに幸若家(七之丞家か)に与えられ、宝泉寺村内の残り84.88石は幕府領となった。この幕府領84石余は1764年に西尾藩領となる。いっぽう、幸若七之丞家の100石は、63年(宝暦13)4月、七之丞が病死したことにより翌64年(明和1)上知となり、65年1月に久保平三郎代官所へ郷村帳が引き渡された(辻嘉左衛門家文書)。天保郷帳では、宝泉寺村は幕府領・西尾藩領、木津見村および天屋村は西尾藩領となっており、この100石分は幕末まで幕府領であったと考えられるが、「嘉永五子年給帳」(松平文庫)には天王村内に幸若猪右衛門知行100石があり、これについては今後検討の余地がある。この記載が正しいとしても、「天王村」でなく「宝泉寺村」であろう。
当家は、幕府領時代から庄屋や納庄屋を務めており、西尾藩時代には割元や大庄屋に任じられて藩財政に深くかかわった。西尾藩主松平乗祐の越前拝領にともない、1764年(明和1)7月20日西尾藩江戸屋敷においてこの領知替えと先発役人の越前派遣の通知を受けたのが、当時江戸にいた内藤武左衛門であった(「松平和泉守様移領以来抄録」)。武左衛門は、坂井郡の藤田金左衛門(池見村か)とともに廻米納名主として5月末から幕府代官宮村孫左衛門のもとにいた。西尾藩の先発役人を迎えるため、武左衛門は廻米にかかわる業務を金左衛門にまかせ、9月3日に江戸を発ち帰国した。なお、武左衛門は、1760年(宝暦10)には100石余を所持し、94年(寛政6)には三人扶持を得、苗字を許されている。
天王村ははじめ福井藩領、1624年(寛永1)以降幸若領200石(伊右衛門家か)と分郷となる。86年(貞享3)、福井藩領分は幕府領となる。その後、幸若伊右衛門領は上知となり(正徳2年ころか)、天王社領を除く271石余はすべて幕府領となる。さらに、1764年(明和1)三河西尾藩領となり幕末にいたる。
ここで元禄郷帳から分村となった宝泉寺村(木津見・天屋両村をふくむ)の支配の変遷についてふれる。まず、上知となった幸若伊右衛門領200石の内訳は、天王村分15.12石、残りが宝泉寺村分(枝郷2村をふくむ)184.88石であった。上知となった200石のうち、宝泉寺村内の100石は新たに幸若家(七之丞家か)に与えられ、宝泉寺村内の残り84.88石は幕府領となった。この幕府領84石余は1764年に西尾藩領となる。いっぽう、幸若七之丞家の100石は、63年(宝暦13)4月、七之丞が病死したことにより翌64年(明和1)上知となり、65年1月に久保平三郎代官所へ郷村帳が引き渡された(辻嘉左衛門家文書)。天保郷帳では、宝泉寺村は幕府領・西尾藩領、木津見村および天屋村は西尾藩領となっており、この100石分は幕末まで幕府領であったと考えられるが、「嘉永五子年給帳」(松平文庫)には天王村内に幸若猪右衛門知行100石があり、これについては今後検討の余地がある。この記載が正しいとしても、「天王村」でなく「宝泉寺村」であろう。
当家は、幕府領時代から庄屋や納庄屋を務めており、西尾藩時代には割元や大庄屋に任じられて藩財政に深くかかわった。西尾藩主松平乗祐の越前拝領にともない、1764年(明和1)7月20日西尾藩江戸屋敷においてこの領知替えと先発役人の越前派遣の通知を受けたのが、当時江戸にいた内藤武左衛門であった(「松平和泉守様移領以来抄録」)。武左衛門は、坂井郡の藤田金左衛門(池見村か)とともに廻米納名主として5月末から幕府代官宮村孫左衛門のもとにいた。西尾藩の先発役人を迎えるため、武左衛門は廻米にかかわる業務を金左衛門にまかせ、9月3日に江戸を発ち帰国した。なお、武左衛門は、1760年(宝暦10)には100石余を所持し、94年(寛政6)には三人扶持を得、苗字を許されている。
資料群の概要
調査点数は約1,200点、このうち約600点を撮影した。
当家文書は中世文書と福井藩時代、幕府領時代、三河西尾藩時代の近世文書に大別される。中世文書は加茂社領志津庄の大工職に関する補任状と太閤検地帳、福井藩時代の資料は1688年(寛文8)の「越前組頭切村附高帳」の1点であり、これ以外は幕府領および西尾藩領時代のものである。
幕府領時代の資料は年貢免状と皆済状、高帳、村明細帳、廻米関係、質入証文類などである。
西尾藩時代の資料は条目、領分高帳、調達金・御頼金関係とそれにかかわる恵民禄講、年貢関係、陣屋普請関係などの藩政にかかわるものと、大庄屋関係、1789年(寛政1)の巡見使関係、天王社関係、書状類に分けられる。大庄屋関係のものは、内済取扱や組下村々の諸願書である。書状類には領内の丹尾清左衛門や高橋十(重)兵衛らと先納金・調達金・借用金をめぐって取り交わされたものや、藩からの財政勝手向への「御頼筋」にかかわるものなどがあり、当家をふくめた大庄屋と藩財政のかかわりを知ることができる。なお、西尾藩の財政は、1776年(安永5)の調達金を81年(天明1)に5か年間元利返済猶予するなど、当初から逼迫しており、その後も7か年御断をはじめとして領内に「御頼筋」を願っている。また、藩主松平乗寛は老年におよんだとき、かさんだ借金の返済について「手段無之、此上ハ借財高領分之者江打明片付方頼候外無之」とのべ、これまでの「違約」の勘弁を求めさらなる「御頼」を願っている。これら逼迫した藩財政にあって、飛領の支配は当家の武左衛門と前記の高橋(天王村)や丹尾(下野田村)らに依存して続けられた。
否撮資料は、年貢請取通、年賦金請取通、融通講請取覚、武左衛門宛書状(書簡)、借用証文、天王宮関連などである。
当家文書は中世文書と福井藩時代、幕府領時代、三河西尾藩時代の近世文書に大別される。中世文書は加茂社領志津庄の大工職に関する補任状と太閤検地帳、福井藩時代の資料は1688年(寛文8)の「越前組頭切村附高帳」の1点であり、これ以外は幕府領および西尾藩領時代のものである。
幕府領時代の資料は年貢免状と皆済状、高帳、村明細帳、廻米関係、質入証文類などである。
西尾藩時代の資料は条目、領分高帳、調達金・御頼金関係とそれにかかわる恵民禄講、年貢関係、陣屋普請関係などの藩政にかかわるものと、大庄屋関係、1789年(寛政1)の巡見使関係、天王社関係、書状類に分けられる。大庄屋関係のものは、内済取扱や組下村々の諸願書である。書状類には領内の丹尾清左衛門や高橋十(重)兵衛らと先納金・調達金・借用金をめぐって取り交わされたものや、藩からの財政勝手向への「御頼筋」にかかわるものなどがあり、当家をふくめた大庄屋と藩財政のかかわりを知ることができる。なお、西尾藩の財政は、1776年(安永5)の調達金を81年(天明1)に5か年間元利返済猶予するなど、当初から逼迫しており、その後も7か年御断をはじめとして領内に「御頼筋」を願っている。また、藩主松平乗寛は老年におよんだとき、かさんだ借金の返済について「手段無之、此上ハ借財高領分之者江打明片付方頼候外無之」とのべ、これまでの「違約」の勘弁を求めさらなる「御頼」を願っている。これら逼迫した藩財政にあって、飛領の支配は当家の武左衛門と前記の高橋(天王村)や丹尾(下野田村)らに依存して続けられた。
否撮資料は、年貢請取通、年賦金請取通、融通講請取覚、武左衛門宛書状(書簡)、借用証文、天王宮関連などである。
県史収載
資料編5 P.369-410 21点、通史編3 P.264・P.300・P.309・P.320、通史編4 P.36
県史以外の収載
『丹生郡古文書目録』
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
D0186~D0202
関連資料一覧
縮小画像の表示/非表示
表示
件
表示順