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福井県文書館
目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
D0021
資料群名
劒神社文書
地域(近世,行政村,現在)
丹生郡織田村,織田村織田,越前町織田(織田町)
資料の年代
1328年(嘉暦3)~1914年(大正3)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
丹生山地中央の織田盆地は武鯖盆地・越前海岸の中間に位置し、丹生山地内の最も広い盆地である。そのためか当盆地は早くから開発されたようで、土器の出土、古墳の確認など考古学的見地から当盆地にはすでに弥生時代後期には多数の人が暮らしており、古墳時代前期には、当盆地をはじめ周辺一帯を支配する有力者がいたと考えられる。
また、『延喜式』神名下の敦賀郡の項にある伊部磐座神社・織田神社・劒神社などは当盆地内の神社に比定されており、その中の劒神社は、当盆地内にいくつかある劒の名の付く神社の中で古代から当盆地中央に鎮座し、当文書を所蔵する劒神社当社に比定される説がある。
当社に伝わる国宝指定の梵鐘は、770年(神護景雲4)9.11鋳造で劒御子寺という神宮寺の存在を示す陽鋳銘を有している。
中世には、当盆地一帯とその周辺は荘園化され、織田荘として天台宗妙法院文書などにその名が見えるが、年未詳の「劒大明神略縁起并来由之事」によれば、当荘は平重盛が当社に3,808町を寄進したことに始まるという。また、この文書は当社(劒大明神)と気比神宮(笥飯大明神)との関係の深さを伝えている(現在、当社はスサノヲ尊を祭神とし、気比大神を配祀している)。
当社は平安時代以降、越前国二の宮として尊崇を集め、おそらく延暦寺の保護下にあったのを、1481年(文明13)の「(朝倉氏景判物)」によれば神宮寺である織田寺の玉蔵坊が朝倉氏の祈願所となったように朝倉氏の保護を受けるようになったようである。織田信長政権下では、1573年(天正1)と思われる「(木下祐久書状)」に「織田寺之御事ハ殿様之御氏神付而、別而被入御念」とあるように信長の祖と当社との関係から特別の保護を受け、年未詳の「(劒大明神領打渡目録)」は柴田勝家から1489石余を神領として与えられ保護されたことを示す。
近世には丹生郡内53カ村を氏子村とし、別当寺として織田寺をともない、古義真言宗東寺観智院末の神前院を筆頭とする寺家(社僧)と、京都吉田家から神道裁許状を得ている上坂家を筆頭とする社家(神職)によって当社は維持されていた。また、当社は1827年(文政10)の「(伏見御所寄附状)」によれば、同年に伏見宮の祈願所となった。
近代に入ると、当社は明治初年に郷社、30年代に県社、昭和初年に国幣小社となった。
先述したように、当社は歴代の支配者に保護され、織田荘内に神領を有した。信長政権下以降の当社の領地の変遷についてみてみると、1577年(天正5)ころ柴田勝家の検地で1489石余があらためて定められたが、「(劒大明神寺家屋敷帳)」によれば、98年(慶長3)の太閤検地では全神領が没収されて新たな村切が行われ、劒社付近に織田村が成立するとともに、わずかに当社寺家25家の1町2反余の屋敷地が除地となった。後、「(結城秀康寄進状)」、「(神谷昌次・乙部可正連署状)」によれば結城秀康・大野藩主松平直政から計51石余の寄進を受けている。
しかし、近代に入ると、「証(払地落札、地代請取ニ付大野県令証書)」は、1871年(明治4)に元神領51石余と林山地が大野県より織田村へ260両で払い下げられたことを示し、神領は境内地をふくめて織田村有となったものと思われるが、境内地は戦後当社に譲渡されたという。
『越前国名蹟考』では、例年9月9日の大祭に神職・氏子らが矛や幡を持ち、神輿をかつぎ練り歩いたというが、当社では御幸(おわたり)として3年豊作が続いたら行うこととして伝承され、最近では1978年(昭和53)10月に行われた(例年の大祭も10月になったようである)が、農業の兼業化とともに豊作を祝う雰囲気が希薄となり、20年近く行われいない。
当社本殿は境内の織田神社本殿とともに県指定文化財である。
元神領の織田村は劒社を中心として織田盆地の中央に位置し、近世になるとはじめ福井藩領、1624年(寛永1)から82年(天和2)まで松平氏大野藩領、以後、幕末まで土井氏大野藩領となった。劒社除地分を含めると田方1,298石余、畑方455石余の1,754石余で、近世前期には大明神村・織田大明神村とも称されていた。
当村内の「劒大明神領(50石余)」は寺家村として独立して扱われることもあった。
また、『延喜式』神名下の敦賀郡の項にある伊部磐座神社・織田神社・劒神社などは当盆地内の神社に比定されており、その中の劒神社は、当盆地内にいくつかある劒の名の付く神社の中で古代から当盆地中央に鎮座し、当文書を所蔵する劒神社当社に比定される説がある。
当社に伝わる国宝指定の梵鐘は、770年(神護景雲4)9.11鋳造で劒御子寺という神宮寺の存在を示す陽鋳銘を有している。
中世には、当盆地一帯とその周辺は荘園化され、織田荘として天台宗妙法院文書などにその名が見えるが、年未詳の「劒大明神略縁起并来由之事」によれば、当荘は平重盛が当社に3,808町を寄進したことに始まるという。また、この文書は当社(劒大明神)と気比神宮(笥飯大明神)との関係の深さを伝えている(現在、当社はスサノヲ尊を祭神とし、気比大神を配祀している)。
当社は平安時代以降、越前国二の宮として尊崇を集め、おそらく延暦寺の保護下にあったのを、1481年(文明13)の「(朝倉氏景判物)」によれば神宮寺である織田寺の玉蔵坊が朝倉氏の祈願所となったように朝倉氏の保護を受けるようになったようである。織田信長政権下では、1573年(天正1)と思われる「(木下祐久書状)」に「織田寺之御事ハ殿様之御氏神付而、別而被入御念」とあるように信長の祖と当社との関係から特別の保護を受け、年未詳の「(劒大明神領打渡目録)」は柴田勝家から1489石余を神領として与えられ保護されたことを示す。
近世には丹生郡内53カ村を氏子村とし、別当寺として織田寺をともない、古義真言宗東寺観智院末の神前院を筆頭とする寺家(社僧)と、京都吉田家から神道裁許状を得ている上坂家を筆頭とする社家(神職)によって当社は維持されていた。また、当社は1827年(文政10)の「(伏見御所寄附状)」によれば、同年に伏見宮の祈願所となった。
近代に入ると、当社は明治初年に郷社、30年代に県社、昭和初年に国幣小社となった。
先述したように、当社は歴代の支配者に保護され、織田荘内に神領を有した。信長政権下以降の当社の領地の変遷についてみてみると、1577年(天正5)ころ柴田勝家の検地で1489石余があらためて定められたが、「(劒大明神寺家屋敷帳)」によれば、98年(慶長3)の太閤検地では全神領が没収されて新たな村切が行われ、劒社付近に織田村が成立するとともに、わずかに当社寺家25家の1町2反余の屋敷地が除地となった。後、「(結城秀康寄進状)」、「(神谷昌次・乙部可正連署状)」によれば結城秀康・大野藩主松平直政から計51石余の寄進を受けている。
しかし、近代に入ると、「証(払地落札、地代請取ニ付大野県令証書)」は、1871年(明治4)に元神領51石余と林山地が大野県より織田村へ260両で払い下げられたことを示し、神領は境内地をふくめて織田村有となったものと思われるが、境内地は戦後当社に譲渡されたという。
『越前国名蹟考』では、例年9月9日の大祭に神職・氏子らが矛や幡を持ち、神輿をかつぎ練り歩いたというが、当社では御幸(おわたり)として3年豊作が続いたら行うこととして伝承され、最近では1978年(昭和53)10月に行われた(例年の大祭も10月になったようである)が、農業の兼業化とともに豊作を祝う雰囲気が希薄となり、20年近く行われいない。
当社本殿は境内の織田神社本殿とともに県指定文化財である。
元神領の織田村は劒社を中心として織田盆地の中央に位置し、近世になるとはじめ福井藩領、1624年(寛永1)から82年(天和2)まで松平氏大野藩領、以後、幕末まで土井氏大野藩領となった。劒社除地分を含めると田方1,298石余、畑方455石余の1,754石余で、近世前期には大明神村・織田大明神村とも称されていた。
当村内の「劒大明神領(50石余)」は寺家村として独立して扱われることもあった。
資料群の概要
撮影文書は中世文書が大半である。中世文書は(1)織田荘近辺の国人藤原氏と守護斯波義将の結びつきを示すもの、(2)当社と延暦寺・妙法院との関連を示すもの、(3)当社と朝倉氏との関連を示すもの、(4)信長政権下の当社関係、(5)太閤検地以降の当社関係、に時期区分できる。とくに(3)では、「内徳分」、「本役米」、「夫役」などの負担関係や、「内徳知行者」、「名主」、「名代」、「地頭」、「給人」などの支配関係、「名田」、「散田」など土地形態関係などの中世の土地制度をさぐる格好の資料が多い。また、(4)では、勝家の「刀さらへ」、指出検地、寺僧・社人の再検地中止願いなどがあり、短い期間ながら密度は濃い。それに比べて(5)はわずかしかない。
1528年(享禄1)の「(劒大明神寺社領納米銭注文)」には、当社への諸負担が定められ、その中に窯焚き1回900文上納という越前焼関係の資料も認められる。
近世の40余点の撮影文書は、18世紀中ごろ(延享年間)までが9点で、大半が19世紀前半ごろ(文政年間)以降のものである。前者は、当社関係のみで、大野藩主松平直政の寄進、相木加左衛門の神楽堂寄進、寺家と社家が寺僧の出仕について確認し合った済証文、神主免許などである。後者は、年貢収納・村方締・名跡相続・分水・請所関係など織田村の村方文書関係がほとんどを占める。当社関係としては、伏見宮祈願所関係、社田開墾関係、拝殿・鳥居普請関係、祠堂銭借用関係などである。
近代では、明治初年の村方請書、別当職廃止とし神主とするに際しての規定書、元神領払い下げの地代請取証、山地組み替えに関する地図、社格通知書、国宝指定書などがある。
否撮文書は45点で、1637年(寛永14)の「松平直基免許状」、1748年(延享5)のあつかい済証文、1870年(明治3)の「取替証文」を除く他は年不詳のものを含めて1493年(明応2)から1600年(慶長5)ごろまでの中世の各種書状・寄進状・沙汰状・安堵状・禁制などである。
45点の内29点は写本であり、写本のうち中世の文書は28点を占める。写本のため否撮としたかとも思われるが、写本でないものの中には、1573年(天正1)の「明智光秀等安堵状」・「秀吉禁制」、75年の「府中三人衆沙汰状」、77年の「勝家寄進状」・「勝家免許状」、年不詳の「信長礼状」・「秀吉書状」・「家康書状」などがある。『福井県丹生郡誌』によりあらかじめカ-ドが作られたが、調査の際資料が見つからず撮影に至らなかったものと思われる。
『県史資料編』には150点の文書が収載されているが、調査・撮影文書188点のうちから収載されたわけではなく、すでに原本・写本ともに散逸し、東大史料編纂所架蔵影写本・『越前国名蹟考』・『福井県丹生郡誌』から収載されたものが32点ある。
1528年(享禄1)の「(劒大明神寺社領納米銭注文)」には、当社への諸負担が定められ、その中に窯焚き1回900文上納という越前焼関係の資料も認められる。
近世の40余点の撮影文書は、18世紀中ごろ(延享年間)までが9点で、大半が19世紀前半ごろ(文政年間)以降のものである。前者は、当社関係のみで、大野藩主松平直政の寄進、相木加左衛門の神楽堂寄進、寺家と社家が寺僧の出仕について確認し合った済証文、神主免許などである。後者は、年貢収納・村方締・名跡相続・分水・請所関係など織田村の村方文書関係がほとんどを占める。当社関係としては、伏見宮祈願所関係、社田開墾関係、拝殿・鳥居普請関係、祠堂銭借用関係などである。
近代では、明治初年の村方請書、別当職廃止とし神主とするに際しての規定書、元神領払い下げの地代請取証、山地組み替えに関する地図、社格通知書、国宝指定書などがある。
否撮文書は45点で、1637年(寛永14)の「松平直基免許状」、1748年(延享5)のあつかい済証文、1870年(明治3)の「取替証文」を除く他は年不詳のものを含めて1493年(明応2)から1600年(慶長5)ごろまでの中世の各種書状・寄進状・沙汰状・安堵状・禁制などである。
45点の内29点は写本であり、写本のうち中世の文書は28点を占める。写本のため否撮としたかとも思われるが、写本でないものの中には、1573年(天正1)の「明智光秀等安堵状」・「秀吉禁制」、75年の「府中三人衆沙汰状」、77年の「勝家寄進状」・「勝家免許状」、年不詳の「信長礼状」・「秀吉書状」・「家康書状」などがある。『福井県丹生郡誌』によりあらかじめカ-ドが作られたが、調査の際資料が見つからず撮影に至らなかったものと思われる。
『県史資料編』には150点の文書が収載されているが、調査・撮影文書188点のうちから収載されたわけではなく、すでに原本・写本ともに散逸し、東大史料編纂所架蔵影写本・『越前国名蹟考』・『福井県丹生郡誌』から収載されたものが32点ある。
県史収載
通史編2 P.448・465・514・577・585・595・654・667・669・670・671・672・738・788・791・933・959・962、通史編3 P.12・15・39・40・44・46・629・630・665、資料編5 P.749-834 150点
県史以外の収載
『越前国名蹟考』 、『越前若狭古文書選』 、『福井県丹生郡誌』、『丹生郡古文書目録』、『越前国織田荘劒大明神誌』、『織田町史』、長谷川裕子「江戸時代初期の越前に現れた「領」-結城秀康・松平忠直の領国支配機構-」(『福井大学教育地域科学部紀要』4 2014年)
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
福井県文書館では原本は収蔵しておりません。代替物(写真複製本・画像)をご利用ください。
利用上の注記(二次利用)
福井県文書館に事前にお問い合わせください(0776-33-8890)。
利用条件(文書館)
 
複製本番号
D0145~D0148
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