北野七左衛門家文書

目録種別
古文書(資料群)
資料群番号
D0016
資料群名
北野七左衛門家文書
地域(近世,行政村,現在)
丹生郡織田村,織田村織田,越前町織田(織田町)
資料の年代
1346年(正平1)~1870年(明治3)
資料目録件数
 
組織歴および履歴
丹生山地中央の織田盆地は武鯖盆地・越前海岸の中間に位置し、丹生山地内の最も広い盆地である。そのためか当盆地は早くから開発されたようで、土器の出土、古墳の確認など考古学的見地から当盆地にはすでに弥生時代後期には多数の人が暮らしており、古墳時代前期には、当盆地をはじめ周辺一帯を支配する有力者がいたと考えられる。また、当盆地内には劒社など式内社に比定される神社が3-4社ほどある。
中世には、当盆地一帯とその周辺は荘園化され、織田荘として妙法院文書などにその名が見える。劒社は歴代の支配者に保護され、織田荘内に神領を有した。1577年(天正5)柴田勝家の検地で「劒大明神領」をあらためて定めたが、98年(慶長3)の太閤検地では全神領を没収して元神領をもとに新たな村切が行われ、劒社付近に織田村が成立することとなった。
織田村は劒社を中心として織田盆地の中央に位置し、近世になるとはじめ福井藩領、1624年(寛永1)から82年(天和2)まで松平氏大野藩領、以後、幕末まで土井氏大野藩領となった。劒社除地分を含めると田方1298石余、畑方455石余の1754石余で、近世前期には大明神村・織田大明神村とも称されていた。
当村内の「劒大明神領(50石余)」は寺家村として独立して扱われることもあった。
大野藩は、当村を2組(寛政年間までは3組)に均分し、それぞれに村役人を置き、各組には庄屋名をつけた。当家当主は撮影文書によれば、少なくとも、七左衛門組庄屋(安政2-3、嘉永3-7)、組頭(万延1、明治2)、郷組頭(明治3)を務めており、否撮文書で不詳ながら明治初期に第十区戸長、1903年(明治36)に劒神社社務掛を務めたらしい。上坂一夫家文書によると、1875年(明治8)に織田村惣代を務めている。
なお、当家先代の北野左仲(七左衛門)氏は、丹生郡下の衰退していた古代末以来の陶器生産技術の継承をはかり、自らも開窯して越前焼の発展に尽くしたことで有名である。
資料群の概要
撮影文書は100点余で、中世のものは、大樟浦の漁業権に関するものの写し、丹羽長秀の大樟浦検地目録の写し、柴田勝家の検地をもとに作られた神領の土地台帳の写しをはじめ原本がすでにないもので、近代になって写された劒社関係文書の長帳1冊には劒社別当織田寺の一坊で朝倉氏の祈願所でもあった玉蔵坊の再建関係があり、劒社の土地支配や収取体系が知られる。
近世のものは、劒神社関係、村方関係、私文書関係に大別され、近世中期以降、幕末にかけて件数が増える。
劒神社関係では、縁起・来歴関係、神領関係、別当織田寺関係などがある。
村方関係では、勘定目録に大野藩代官の裏書をつけた体裁の皆済目録、免状、水帳、大野藩代官から藤田次右衛門宛の12通余の村方関係書状、隣村との境や村内での支配地をめぐる争論関係、大野藩陣屋普請関係、拝借金関係、年貢代納関係、空焼関係、番水関係、跡式相続関係、浦手形、などのほか、和宮降嫁の裏面史資料といえる「和宮様御通行中仙道中津川宿落合宿助郷雑用割一件」や、織田焼(越前焼の前身)をめぐる近世資料といえる陶土(「瓶土」と表記)の採取による山・田畑の荒れに関する証文がある。
私文書関係では、おろし関係、借金・質物・売券関係、奉公人関係などがある。
近代のものは、6点余りと少なく、1870年(明治3年)の「御物成金銀請取通」、「別当職廃止ニ付神主ノ規則趣意書」、「二ツ屋駅助郷方并大野南山中助郷人足盛割帳」や明治初年ころの租税督促関係の書簡などがある。
否撮文書は記録カ-ドによれば50点で、大別すると近世のものは、後期以降のものが多く、陣屋普請関係、人足関係、借銀証文関係、村境等をめぐる争論・内済関係、養子・跡式関係、売券・請作など土地関係、宗門改関係などで、近代のものは、1903年(明治36)の「県社劒神社歳入出精帳」や49年(昭和24)の「枯松葉調帳」を除けば、明治初年ころの地券証、1869年(明治2)の「御殿様御加増拝領ニ付御祝儀献納帳」、70年の借銀札関係、71年の第十区戸長辞令書などである。
利用条件
 
県史収載
通史編2 P.573・668、通史編3 P.44、資料編5 P.711-749 16点
県史以外の収載
『丹生郡古文書目録』 『織田町史』
複製本番号
D0121~D0124
備考
 
利用上の注記(原本閲覧)
原本の閲覧はできません。
利用上の注記(二次利用)
文書館に事前にお問い合わせください。